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創立60周年記念事業

ひむかいの塔慰霊祭

期日 平成21年4月7日~同4月8日 於沖縄県

趣旨

昭和四十年十一月、日本本土の防壁となり苛烈を極めた沖縄戦最後の激戦地であり、宮崎県出身の将兵が最も多く戦没された地に、沖縄戦での本県戦没者一、八四八柱の御霊をお慰めするため「ひむかいの塔」が建立された。
昭和四十五年には、沖縄戦以外の本県出身戦没者も合祀され、今では三一、二三七柱の御霊がお鎮りになられている。
当会では昭和四十五年十一月、第四代佐藤宜久会長以下八名の先輩方が初めて奉仕されており、以後多くの先輩方が携はってこられた。
なかでも昭和五十七年には第七代長友隆二会長が榊の植樹を、さらには昭和六十二年、第十代本部雅裕会長の時には、敷地内に国旗・県旗柱を建立しており、その後宮崎県戦没者等慰霊奉賛会に献納している。
しかしながら近年では神道による慰霊祭は斎行されておらず、県主催の慰霊祭は例年十一月に行はれているものの神式の慰霊祭ではなく、また当会においても平成十一年の奉仕が最後となっている。            
かつて第三代清水惟重会長時代に、沖縄の地では初となる神式の慰霊祭が全国に先駆けて斎行された。本土復帰前、昭和三十七年三月十五日のことである。
我々宮崎県神道青年会は、創立六十周年の佳節にあたり当会主催の慰霊祭を斎行し、慰霊の誠を捧げるとともに、先輩諸賢が「斯界の尖兵」としてこの沖縄で繋いできた熱き思ひを再確認し、後世に伝へる使命があるのではなからうか。
今こそ基つ心「素心」を問ひ直し情熱をもって新たな一歩を刻んでいかうではないか。
人と人、心と心、そして過去と未来を繋ぐべく本事業を斎行するものとする。
会員諸兄の自発的な参加を期待する。

慰霊祭を終えて

平成21年4月7日から1泊2日の日程で沖縄県にある戦没者慰霊碑「ひむかいの塔」にて、宮崎県神道青年会会員十五名で慰霊祭を斎行した。
4月7日(火)午前11時、宮崎空港に、中央研修会時の揃いのネクタイを全員着用して集合した。宮崎神青長友会長から出発前の挨拶を頂戴し、午前11時55分発ANA469便にて宮崎空港を飛び立った。午後1時20分沖縄県那覇空港に到着。直ぐにマイクロバスに乗り換え、沖縄県護国神社に正式参拝に向かった。

参拝後、伊藤陽夫宮司様より沖縄戦や戦後の復興についてお話を伺った。
沖縄県護国神社では慰霊祭で使用する大麻と玉串まで準備して戴いた。

次の普天満宮では、正式参拝後に沖縄神青田場会長様より、拝殿裏にある洞窟内に琉球古神道神を祀ったことに始まると説明頂き、全員非常に興味深げに見学していた。

波上宮では正式参拝後に本殿裏の祈りの聖地、拝所として遥か昔の人々が日々の祈りを捧げた波の上の崖端を案内頂いた。三社の正式参拝を行い、沖縄独自の琉球神道や、沖縄の神社の置かれている現状について理解を深めた。
夜、宮崎神青懇親会を行い、今後の神青の在り方などについて杯を傾けながら大いに語り合った。しかし、その夜から生憎の雨が降り始め、翌日の慰霊祭を皆で心配した。

4月8日(水)慰霊祭当日、雨の心配が有った為、ホテル出発時間を1時間早め、午前8時に「ひむかいの塔慰霊祭」を斎行すべく、全員白衣白袴に着替えてホテルロビーに集合した。

昨夜から降り続けている雨の影響で慰霊祭が斎行出来るのかを案じ、全員が神妙な面持ちでバスに乗り込んだ。

午前9時「ひむかいの塔」前に到着。この「ひむかいの塔」は本県出身者1,848柱の戦没者と沖縄戦以外の戦場で散華し戦い散った29,389柱の戦没者を合わせた31,237柱の御霊がお鎮まりになっている場所である。

我々が到着した時、日常維持管理をして頂いている、財団法人沖縄県平和祈念財団の方が、早朝より雨の中清掃作業を行っていた。その姿に我々は感謝の気持ちでいっぱいになり、全員が小雨の中、黙々と掃除、補設に取り掛かった。全員が一刻も早く雨がやむ事を祈っている気持ちを強く感じた。

準備が終わり、直ぐに習礼を始めた。今回の慰霊祭は全員奉仕である。祭員と楽奉仕に別れ、祭員は自分の所役の確認や他会員の所役の助言などを行い、楽奉仕はギリギリまで音合わせを行っていた。

午前10時、準備が整い、いよいよ「ひむかいの塔慰霊祭」を斎行する事となった。いつの間にか雨は止んでいた。斎主、祭員列立し、斎主が対揖した瞬間、突風が吹きつけ斎主、祭員の着座用に敷いていたシートが吹き飛ばされた。英霊達が「お前たちは本当に斯界の尖兵か?慰霊祭出来るのか?」と問い掛けられている様に感じた。直ぐにシートを敷き直し、気を引き締めて慰霊祭を開式した。

音取を以って号鼓に替えたが、音取が終わると同時に、それまで曇に閉ざされていた日差しが一筋の光として射し込み、「ひむかいの塔」そして神青会員を照らした。それまでの、英霊達の厳しき眼差しから、会員たちの真剣な奉仕によって、英霊達のやさしき見守りに変わったように感じた。
慰霊祭次第は以下の通りであった。
号鼓・修祓・降霊・献饌・祝詞奏上・みたま慰めの歌・玉串拝礼(斎主、沖縄神青会長)・撤饌・昇霊・終鼓と、滞る事無く厳粛に終了した。神饌の中に神青会員が各自持ち寄った宮崎の焼酎やお茶、煙草等もお供えをした。
みたま慰めの歌(みたま慰の舞)
「やすらかに ねむれとぞおもふ きみのため いのちささげし ますらをのとも」
と、楽奉仕者全員で楽と歌をもって御霊を慰めた。
沖縄神青田場会長様には御多忙の中ご参列戴き、宮崎神青会員全員で御礼申し上げた。祭典を通じ、会員の絆がより深く結ばれたと感じた。

祭典終了後に、長友会長を始め、会員全員で慰霊碑の前に整列し、英霊の安らかな眠りを祈念し、神青会会員後輩達が、再度慰霊祭を斎行しに来ることを誓い、青空の中「ひむかいの塔」を後にし、午後2時30分那覇空港発ANA470便にて、宮崎に無事帰郷した。

私事ではあるが義理祖父がフィリピン国ルソン島で32歳の若さで戦死している。義理父5歳のときである。合祀されている義理祖父の御霊を慰める慰霊祭でもあった。義理祖父が私の同年代で子供を残し、遠き南の地にて散華した悔しさ無念さは図りしれない。慰霊祭終了後、南冥の海の遠くに果てまし義理祖父の御霊に対しフィリピン国ルソン島の方向に遥拝した。
帰りの機内から銀翼の輝きを見ながら、出発の前夜、寝息を立てている子供の寝顔を見て感じた無上の幸せは当たり前ではなく、今の平和は日本の為に散華し戦い散った英霊たちの尊い一命のお陰であると改めて感じた。平和すぎるほど平和なこの世の中が英霊の尊さを忘れさせている。大東亜戦争終結より64年の月日が流れ、未曾有の荒廃の中から奇跡的発展を遂げる事により、過去の戦争を忘れ、全てが新しく生まれ変わったかの現代社会、又、戦争体験のない神青会員へと変わったが、今回の様な経験を通して、次の世代へと我々神青会会員が伝えて行く事が、青年神職の務めだと思う。
(前田瑞仁)

所役(15名)

氏名所役服装
 長友安隆(青島神社)斎主斎服・冠・浅沓
 湯浅要作(宮崎天満宮)副斎主・祓主・陪膳浄衣・立烏帽子・浅沓
 後藤倫太郎(高千穂神社)大麻所役・膳部浄衣・立烏帽子・浅沓
 中原慎太郎(鵜戸神宮)警蹕・一の手長浄衣・立烏帽子・浅沓
 石塚和也(宮崎神宮)祝詞後取・二の手長浄衣・立烏帽子・浅沓
 前田瑞仁(神柱宮)玉串後取・三の手長浄衣・立烏帽子・浅沓
 野迫武士(行縢神社)四の手長浄衣・立烏帽子・浅沓
 渡辺雄介(一葉神社)前導浄衣・立烏帽子・浅沓
 高橋嘉樹(鵜戸神宮)楽奉仕 鳳笙・歌方浄衣・立烏帽子・雪駄
 沼口宗史(宮崎神宮)楽奉仕 鳳笙・歌方浄衣・立烏帽子・雪駄
 佐藤貞和(宮崎八幡宮)楽奉仕 篳篥・歌方浄衣・立烏帽子・雪駄
 外山清二(粟野神社)楽奉仕 篳篥・歌方浄衣・立烏帽子・雪駄
 串間祥亮(小戸神社)楽奉仕 龍笛・神楽笛浄衣・立烏帽子・雪駄
 永友郁央(平田神社)楽奉仕 龍笛・歌方浄衣・立烏帽子・雪駄
 甲斐法長(児原稲荷神社)ビデオ・写真撮影白衣・雪駄