宮崎神青ブログ - 20220221のエントリ
◯六月灯◯
鹿児島県を中心とする旧薩摩藩領の神社や寺院で、それぞれ日を定めて行われる夏祭りです。一般的には七月(旧暦六月)に行われています。「ろっがっどー」の呼び名で夏の風物詩として親しまれています。梅雨明けの季節である為、人畜の疫病、田畑の病虫害、台風等の災害がないよう、無病息災・五穀豊穣、また氏子の健康・安全を祈る祭りです。六月灯の時期になると毎週のように各所で花火が上がり、踊りや夜店で賑わいをみせます。また、氏子の子どもたちが思い思いに描いた灯篭が奉納され、境内に灯されることも特徴の一つです。
由来:初代島津忠久の供養で家臣が灯籠を灯し、それが庶民に広まりました。島津本家第十九代藩主島津光久公が、鹿児島県城下の新昌院の上山寺の観音堂を再建した記念に沿道に灯籠をつけさせた(旧暦六月十八日)ことで、家臣や領民たちもこれにならい奉納したことが始まりとされました。牛馬の疫病や田の害虫駆除の民間行事が洗練され六月灯へ変化していった等の諸説あります。
時期:七月を中心に行われる。
神社:神柱宮(都城市前田町鎮座)7/7、8 http://www.kanbashira.net
科長神社(都城市上水流町鎮座)7/29
乙戸神社(都城市下川東町鎮座)7/18
早水神社(都城市早水町鎮座)7/13
小鷹神社(都城市上長飯町鎮座)7/7
旭丘神社(都城市姫城町鎮座)7/28 https://hinoo.net/
兼喜神社(都城市都島町鎮座)7/30
御年神社(三股町宮村鎮座)7/7 https://mitosijinja.net/
御﨑神社(北諸県郡三股町)7/20
竈門神社(北諸県郡三股町)7/28
早馬神社(北諸県郡三股町)7/23
稲荷神社(北諸県郡三股町)7/25
的野正八幡宮(都城市山之口町)7/25
熊野神社(都城市山之口町)7月
走湯神社(都城市山之口町)7月
南方神社(都城市山之口町)7月
諏訪神社(都城市高城町)7/21
春日神社(都城市高城町)7/8
熊野神社(都城市高城町)7/15
南方神社(都城市高城町)7/25
霧島岑神社(小林市細野)7月
「神輿」 御年神社
「灯籠」 御年神社
「ダンス」 御年神社
旭丘神社
「灯籠」 旭丘神社
◯苗代田祭(ベブがハホ)◯
二月十八日に行われる五穀豊穣と子孫繁栄を願う神事です。
先づ春の訪れを喜び、種まきの道理を説き、水利を願う三種の神歌が奏上されます。
御神田に見立てた斎庭を造り、その中で親方の「太郎次」と田人衆によって、方言を交えた即興の田遊びの演劇が行われます。大げさな身振りで転げ回りながら田掻きを行い、世情風刺を交えたユーモラスなやり取りが交わされ、観客の笑いを誘います。
満を持して木彫りの牛(べブ)が「牛方」に引かれて登場すると、神田を大きく回って田を掻きます。ここが一つの見どころとなっており、よくテレビ等で紹介される場面です。
その後、太郎次の「ハホ―(母)」との掛け声で奥方を呼ぶと、臨月を迎えた身重の「ハホ」役が女面を付けた姿で登場します。ハホは頭に乗せた種もみの入った折敷を宮司に渡すと、宮司が種もみを神田に撒き、それに続いて田人たちも、神田を周回しながら「庭立の歌」を歌います。歌には子孫繁栄の願いが込められ、神事は納められます。
由来:べブは牛、ハホは妊婦を表す方言で、地元ではこの神事を「べブがハホ」と呼んでいます。
五百年前から続いており、方言を用いた問答で苗代を整える道理や田作りの要領を語り聞かせながら行う田遊び神事です。
五月の御田植祭、十二月の狭野神楽と続く年中行事の始まりで、御田植までの苗代の成長や水利の安全を願います。
以前は実際の御神田で神事を行っており、牛も氏子農家からおとなしい牛を連れてきていたようです。いつからか木彫りの牛が使われるようになりました。江戸時代の書物に、「噴火によって木彫りの牛が焼けたので作り直した」とあるように木彫りの牛も歴史が長いようです。現在の牛は昭和初期の作成で、先代の江戸末期の牛も保管されています。
時期:二月二十八日
神社:狭野神社 (西諸県郡高原町鎮座)
写真②
写真③
写真④
◯御田植祭◯
毎年五月十八日に行われる祭事で、棒踊と奴踊が奉納されます。狭野神社の境内で行われるため御田植行事は行われないものの、踊りの奉納を見に多くの参列者で賑わいます。
棒踊りは氏子男手で奉納され、槍に見立てた六尺の棒、木太刀、薙刀、鎖鎌の組合を四人一組となり十二人で踊ります。一挙手一投足に気合を入れた勇壮なもので、境内で踊りを奉納した後、地区内の新築の家や赤ちゃんが生まれた家を踊ってまわります。
奴踊は昔は楽と踊りのどちらかが尽き果てるまで威勢よく踊られる勇壮なものでしたが。戦中男手が居なくなった折に婦人方に引き継がれて現在でも婦人会を中心に、心の嬉しさを顔に出して元気よく楽しく踊り祝う奉納舞となっています。
由来:棒踊の起源は島津藩の剣法「示現流(じげんりゅう)」から来ており、慶長年間に義弘公の朝鮮征伐の凱旋祝として踊ったのが始まりとされています。
また奴踊は新納忠元が秀吉軍から八代城を守り切った際に顔にひげを書き即興の歌と踊りで祝ったものが始まりとされています。各武将によって薩摩に広く伝わっており、新納忠元公からの崇敬が厚かった当社にも伝承されています。
時期:五月十六日
神社:狭野神社(北諸県郡高原町鎮座)
写真②「棒踊り」
◯弥五郎どん◯
的野正八幡宮で神事が斎行された後、弥五郎の館に向けて浜殿下りが行われます。お旅所となる弥五郎どんの館前では、中学生による浦安の舞や、田の神舞などの神楽が奉納され、続いて郷土芸能が奉納されます。「弥五郎どん」ゆかりのものに触れると病気をせず一年中元気であるという言い伝えがあります。祭りの見どころはなんといっても子どもとともに浜殿下り行列の先祓い(先導役)を威風堂々と務める弥五郎どんです。毎年県内外より沢山の方が見に来られます。
由来:弥五郎どんは隼人の首領だったと言われ、現在、南九州の3カ所で、大きな弥五郎どん人形が登場するまつりが続けてられています(都城市山之口町的野正八幡宮、日南市田之上八幡神社、鹿児島県曽於市岩川八幡神社) 養老4年(720年)、この地にいた隼人族が大和朝廷に反乱を起こし、押し寄せる政府軍と闘うも次々に城が落ち、犠牲者も弥五郎どんをはじめ1400名余にのぼりました。大和朝廷はその霊を慰めるために、首領であった弥五郎どんの人形をつくり、全国で放生会(ほうじょうえ)を行ったのが、祭りの始まりといわれています。
時期:十一月三日
神社:的野正八幡宮(都城市姫城町鎮座)
写真②
写真③
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写真⑤