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宮崎神青ブログ - 教えて神主さん!カテゴリのエントリ

例祭について

カテゴリ : 
教えて神主さん!
執筆 : 
sashi 2020-2-11 14:50

2月11日は、紀元節の日です。

 

建国の記念の日にあたり、神武天皇の偉業を仰ぎ、

国を愛する心を新たにして、皇室の永遠と国家の発展を祈りましょう。

 

 

さて今回は、例祭についてご紹介いたします。

 

神社の祭祀は、大祭、中祭、小祭に分けられます。大祭のうち、例祭は1年に1度のその神社の最も大切で、かつ盛大なお祭りです。

神社ごとに、特別なご由緒のある日などを例祭日と定めています。

 

鵜戸神宮の例祭は、毎年2月1日に斎行されます。

この日がなぜ例祭なのか、はっきりしたことはわかりませんが、

御祭神のご誕生の日、崩御の日とも言われています。

 

当神宮では、奉祝行事として

1日   第47回四半的弓道大会 約200名

1日夕刻 歌合戦 日南市 中央町地区・風田地区 約100名 

9日   第67回剣法発祥鵜戸山顕彰剣道大会 約3000名

が開催されました。

 

下記に次第を記載しています。

画像を交えご紹介

 

例祭次第

一、宮司一拝

一、開扉  (宮司が本殿の御扉を開きます)

一、献饌  (祭員が神饌を献じます)

一、宮司祝詞奏上

一、献幣の儀  (神社本庁より幣帛を献じます)

一、献幣使祭詞奏上

一、舞楽 蘭陵王奏舞

一、宮司玉串拝礼

一、献幣使玉串拝礼

一、参列者玉串拝礼

一、撤幣の儀  (本庁弊を撤します)

一、撤饌  (祭員が神饌を撤します)

一、宮司一拝

 

手水

列立(右側 祭員 左側 献幣使同随員)

参進

修祓

宮司一拝

開扉

献饌(神饌12台)

宮司祝詞奏上

献幣

 献幣使祭詞奏上

舞楽 蘭陵王(昨年は舞楽 納曽利 毎年交互に舞楽を舞います)

 玉串奉奠

献幣使玉串奉奠

参列者玉串奉奠

参列者 約200名

 退下

 直会(こちらは一般の方のみ 神職直会は別室で行います)

四半的大会(飫肥藩で伝えられてきた独自の弓術)

歌合戦(例祭に俵を奉納していただいた風田地区、中央町地区の皆様)

 

奉納米

 

剣道大会(剣法発祥の地で開催され大正時代から始まった大会)

 

 

教えて神主さん!㉓~一之宮?~

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教えて神主さん!
執筆 : 
office 2016-12-10 10:24

去る12月5日、午前10時より都農町大字川北鎮座される都農神社にて

例祭が斎行されました。

 

私も宮司の随行として、初めて参列させていただきました。

 

従来の申酉祭を改めた祭であり、前日とさらに祭典後に神楽の奉納もあったようです。

 

当会会員の2人も、新天地で神明奉仕に励んでいるようです。

 

12月とは言え、この日の最高気温は約20度・・・

 

約1時間の祭は、厳粛のうちに滞りなく斎行されました。

ご社頭益々のご隆昌と、氏子の皆様のご健勝を心からご祈念申し上げます。

誠にお目出度うございました。 

 

ところで、都農神社は『日向国一之宮』(ひゅうがのくにいちのみや)

 

一之宮ってなんでしょう???

 

一之宮は諸国の国内で、第一の地位を占めた神社であります。
平安時代後半からみられ、平安後期から中世に諸国の神社の中心的地位を占めました。
平安時代においては国司は、任国の国内の主要神社に神拝するのが例になっていました。
また諸国国内の神社の管理・祭祀は国司の任務であり、必要に応じて奉幣などを行うこととなっていました。このような神拝や任務の執行にあたって、便宜上行われた国内神社の序列化が、一之宮の起源ではないかと考えられています。
また、そうした国司の側の主導で成立したというのではなく、諸国国内において自然発生的に生じた神社の序列を国司の側が公認したものであろうとする見方もあります。

 

一之宮はその神社の勢力の推移、その他の理由によって時代により変わった例もあります。
また同等の崇敬を集めていた等の理由により、複数の神社が同時に一宮を称することもありました。さらに時代の推移により、一宮が不明となり数社が一宮と比定されたまま結論が出されないでいる国もあるようです。(神道辞典より)

 

実際に都農神社の神主さんに聞いてみると、

国司がその国に着任した際に、一番最初にお参りする神社が一之宮

との説が有力であるとのことでした。

 

 

当時の日向国の国府は現在の西都市都於郡でありますので、それならば近くに鎮座される

都萬神社が妥当ではないかとも考えられますが、都萬神社は二之宮なのです。

 

では、なぜ都農神社が一之宮に選ばれたのか?

 

①国司が赴任する際に、昔は船でその国に向かっていました。

その船着場が日向国では、現在の日向市美々津であり、そこから国府に向かう際の官道の一番北側にあったから。

 

②国府の鬼門にあたる方角に鎮座されていたから。

 

等々、諸説あるようです。

 

ちなみに、宮崎市に「一の宮町」という地名がありますが、これには恒久神社に関連しているとか・・・

恒久神社は、寛治4年4月、国富の荘園の鎮守として都万の宮を勧請したものです。

「都万の宮」、つまりは都萬神社のこと。

じゃあ、二の宮町やん!と思われるでしょうが、

当時の人々が都萬神社を一之宮と勘違いしていた、なんて話もあるそうです。 

 

話がそれましたが、いずれにしても、両社とも式内社でありますので、少なくとも当時から鎮座されていた歴史の古い神社であることは間違いありません。

 

一之宮は全国に全部で102社、108か所あるそうです。

 

その国の象徴とも言える一之宮。

機会がございましたら、是非お参りされては如何でしょうか・・・

 

あなたの国の一之宮は、どちらですか??? 

神職になるには資格が必要である。


○か×か?

その答えは「○」
 

資格が必要なのです。
ちなみに資格とは言わずに、「階位」(かいい)と言います。

階位は、
浄階(じょうかい)
明階(めいかい)
正階(せいかい)
権正階(ごんせいかい)
直階(ちょっかい)
があり、規定の定めるところにより検定し、授与されるものです。
それぞれの階位の事を申せば、とても書ききれませんので、
上記の五階等があると覚えていただければと思います。

本日は、去る7月11日から8月10日迄の1ヶ月間、宮崎県神社庁にて開催された「直階検定講習会」を

受講され、目出度く階位を取得された成り立てほやほやの神職さんに、講習会を終えての感想を寄稿して

いただきました。


社家に嫁ぎ、神職の妻となって七年の月日が流れました。
日々社務の手伝いを行うなかで、いつかは私も神職として神社を盛り上げたいという気持ちを抱くようになりました。そして今回、子供の保育園入園をきっかけに、ついに念願が叶い家族の後押しを受け受講させていただくこととなりました。

 


講習会は、自分の無知を自覚することから始まりました。

唯一の救いであった多少なりとも日々神社に携わってきた、という小さな自信はあっという間に吹き飛び、

改めて真剣に取り組まなければと気を引き締めることとなりました。 


一ヶ月という短い期間で学んだことは、祭式や祝詞作文・購読を始め、神宮史、近代史、法規など多岐にわたりましたが、全ての授業が面白く、様々な分野に対して関心を高められました。特に、神職として奉仕する上で非常に重要である祭式は、最も関心が高い講義でした。一つ一つの所作に意味があり、その意味は全て神前にて奉仕するが故であるという事、神様と祈願者との“仲とりもち”である神職の在り方などを学びました。



そして何よりも、最終日の閉講奉告祭にて恐れ多くも斎主としてご奉仕させて頂きましたことは、

今後斎主を務める事がそう多くはない私にとって非常に貴重な経験となりました。

心地よい緊張感の中、粛々と神事が行われ、受講生代表として祝詞奏上、玉串奉奠をさせて

頂きました。

『祭』とは、祭員だけでなく、参列者も含め全員で奉仕するものだと感じることができました。

人生初の大役を果たした閉講奉告祭終了後には、たくさんの仲間や先生方のあたたかいお声に、

張り詰めていた緊張の糸が一気にほどけ、涙が止まりませんでした。
 

振り返るとあっという間の一ヶ月でした。

片道約一時間をかけての通学だったこともあり、体力的に追い込まれる事も多かったのですが、

応援し支えてくれた家族、そして共に切磋琢磨した仲間たちの存在があったからこそ、最後まで

やりきる事ができたと思います。

 

神職としてのスタートラインに立った今、講習で出会えた仲間たちとの繋がりを励みにしながら、

初志貫徹の決意で奉仕していきたいと思います。
 

最後になりますが、階位取得にあたりお力添えを賜りました多くの皆様に心から感謝申し上げます。

(3?歳、三児の母) 

皆様は全国に神社が何社あるか考えたことはございませんか?

 

そもそも神社とは?
神道の神々を祀るため設けられた建物、または施設の総称をいいます。
古くからヤシロ(社・神社)、ミヤ(宮)、モリ(社)、ホコラ(祠)などと呼ばれています。
年数回の祭りのたびに、霊地として神聖視される場所、すなわち村里を見下ろす秀麗な山の麓、清澄な川や泉のほとり、明るく神々しい森などに、神籬(ひもろぎ=臨時に神の座とされる榊などの常緑樹)、または磐座(いわくら=同じく自然石)を設けて神霊を迎え、終われば送り返すのが常でありました。
聖地はみだりに人の進入を許さぬ禁足地で、注連縄などを張り、木草の採集も忌まれました。
 

一般に神社の原初形態は必ずしも社殿を伴うわけではありませんでした。
語源的にはヤシロは屋代とする説が最も支持されており、祭りに際し臨時の小屋を建てる場所のことであります。祭りは一般に多く野外でなされたが、祭壇などを風雨から守るため簡易な覆い屋を設けるに至り、さらに祭りのあともその仮小屋を撤去せず、常設のものとしたのが社殿の発生と考えられるそうです。
関連して神観念も、毎年時期を定めて来臨する来訪神から、神殿に常在して人々を守る神々の信仰へと変化していったのです。

 

 

神社は祭礼行事などを通じ地域社会の住民の連帯感の育成に深くかかわる存在であったので、神社数や分布の変遷は、ほぼ地域集落のそれに比例します。 

時代 神社数 備考
8世紀 4,012郷  
10世紀 4041郷  
13世紀 10,000余  
16世紀初期 98,000郷  
明治前期 約200,000社 当時の自然村数にほぼ見合う
明治4年   近代社格制度により神社を国家の宗祀と位置づける
明治20年代   町村統合のなかで、政府は神社存立の基盤整備を志す。
明治39年 193,000余社  
  約70,000社廃合

神社合祀政策(=勅令)により、一町村一社とした。

神社を地域社会の精神的な拠り所として改めて位置づけ直し、

町村の行政力の強化を図ろうとした。神社の数を減らして残った

神社に経費を集中させることで一定基準以上の設備、財産を備え

させ、神社の威厳を保たせて、継続的経営を確立させることにあった。

一時は大いに実績を挙げたが、次第に各地に紛争弊害をもたらし、

かえって神社崇敬の観念を失わせる結果も地方には生じ、反対の

声も強くなって沙汰やみの傾向となった。

大正初年 110,000余社  
終戦当時

109,809社

終戦後はGHQの神道指令により、神道は国家の管理を離れ、

終戦後 87,218社

宗教法人登録社(神社本庁所属)

旧無格社等の中には法人手続きをしない神社もあった。

平成4年 79,165社  
平成26年 78,934社

※最も多いのは新潟県(4,737社)

次いで兵庫県(3,834社)、福岡県(3,321社)

※最も少ないのは沖縄県(11社)

次いで和歌山県(418社)、大阪府(571社)

※宮崎県は下から5番目の652社

 

ちなみに明治4年の近代社格制度とは?

明治政府によって定められた神社の格に関する制度。
維新政府は成立以来神社の全国的掌握や神社調査を進めてきましたが、その調査が一段落したので明治4年(1871)5月14日には太政官布告を公布、神社の格を大きく官社と諸社に分類したものです。 

社格 神社数 備考

官社

(かんしゃ)

当初は97社

※官幣大社29社、中社6社、小社なし
平安時代の二十二社など、朝廷にゆかりの深い神社が中心

※国幣大社は諸国一宮を中心に列格されたが当初存在せず。

中社45社、小社17社
※序列

官幣大社、国幣大社、官幣中社、国幣中社、官幣小社、国幣小社、別格官幣社
官幣社、国弊社とも官社として実質的にほとんど差違はなかったが、例祭のみが

官幣社が皇室から幣帛料が支出されるのに対し、国弊社は国庫から支出される

違いがあった。
また菊の紋章も当初は官幣社のみに許されていたが、明治七年には国弊社の

社殿装飾などにも許可されることになり、区別はなくなった。

府県社

(ふけんしゃ)

終戦当時

1,148社

諸社の最上位に位置し、府県が崇敬する神社。
三府(東京、京都、大阪)、各県のほか、北海道、樺太、台湾などにも所在した。

郷社

(ごうしゃ)

終戦当時

3,633社

府県社につぎ、村社の上位に当たる。
その地域(郷邑)の産土神を祀る神社がこれに相当した。
明治4年(1871)の郷社定則では、戸籍一区につき一社が目安とされ、産土神を

祀る神社が多くある場合は、そのうち最も主要なものを郷社として選ぶように

なっている。

村社

(そんしゃ)

終戦当時

44,934社

郷社につぐもの。明治4年(1871)の郷社定則では、郷社に付属すべき

ものとされていた。

通常村の氏神を祀る神社がこれに相当した。

無格社

(むかくしゃ)

終戦当時

59,997社

村社にも至らなかった格の無い神社。神社中、最下位に置かれた。

宮崎県では官幣大社に宮崎神宮、鵜戸神宮、国幣小社に都農神社が列格していました。

社格制度は終戦後にGHQの政策により廃止されています。

 

時代ともに変遷してきた神社ですが、先日のテレビにて、25年後には神社が4割減少するとの

話がございました。

確かに山を切り崩しそこに新たな町が誕生したとしても、その町に新たな神社を創建する

との話は現状では耳にしません。

むしろ過疎化に伴い、存続の危機にある集落の話をよく耳にします。

当然のことながら集落の消滅は、神社の消滅へと繋がります。

 

皆様方には現在ご自分のお住まいの地域、また遠く離れていたとしても生まれ育った地域の

氏神さまに心を寄せていただき、大切にしていただければと思います。

 

去る3月16日の参院予算委員会での、三原じゅん子議員の発言の中にでてきた熟語。
「八紘一宇」(はっこういちう)
賛否両論あるようですが、そもそも八紘一宇って何???
 


八紘一宇とは
神武天皇ご即位二年前に発せられた「橿原建都の詔」
上(かみ)ハ乾霊(あまつかみ)ノ国ヲ授ケタマヒシ徳(みうつくしび)ニ答ヘ、

下(しも)ハ皇孫(すめみま)ノ正(ただしきみち)ヲ養ヒタマヒシ心(みこころ)ヲ弘メム。
然(しかう)シテ後ニ、六合(くにのうち)ヲ兼ネテ以ッテ都ヲ開キ、

八紘(あめのした)ヲ掩(おほ)ヒテ宇(いへ)トセムコト、又可(またよ)カラズヤ

「紘」とは冠の紐とか縄張りという意味。
「八紘」となると、杭を(四方に)打って縄を張り巡らし、境界を示す意味。
従って、元々の神武天皇詔勅の意味するところは、
上は天つ神(皇祖神・天照大御神)が国をお授けになった御徳に答え、
下は皇孫(天孫・瓊瓊杵尊)が正しきを養われた御心を広めてゆこう。
その後、六合(天地と四方)を統合して都を開き、八紘(天下)を覆って宇(家)となす
ことは、とても良いことではないか。という意味となります。
つまり国民が一家のごとく仲睦まじく暮らせるような平和国家の建設、神武天皇の肇国の
理想が謳われていると言えるでしょう。
「八紘一宇」とは、上記から日蓮在家教団「国柱会」(こくちゅうかい)の田中智学(ちがく)が

大正二年に造語した熟語です。

また、宮崎県にはこの熟語が掲げられた塔が建設されているのをご存知でしょうか???

八紘之基柱(あめつちのもとはしら)
①名  称 八紘之基柱、八紘一宇の塔、現在は平和の塔
②完成年月日 昭和15年11月25日(鍬入式・同14年3月10日、着工同年5月20日)
約1年半で完成。
紀元二千六百年奉祝事業の一環として「紀元二千六百年宮崎県奉祝会」が建設。経費約80万円。
③使用石材  1789個が世界各地から寄せられた。
④塔の高さ  36.4㍍(当時は東京丸の内ビル30㍍を上回る日本一の高さを誇った)
⑤塔の形状  御幣の形をしている(世界中の罪穢れを祓う)
⑥陶  像  各々60㍍。信楽焼。和御魂(工神)、荒御魂(武神)、幸御魂(農耕神)、奇御魂(漁神)
⑦考案者
相川勝六宮崎県知事。
塔の形については、「基柱は罪穢を祓う御幣なのです。この国民総力による御幣を以て吾々自分の罪穢を祓ひ、世界の罪穢を祓ひ、真に八紘一宇の正しき平和確立する。之れ即ち建国の大理想実現のため御幣のかたちを採った所以であります」
(『紀元二千六百年奉祝と県民覚悟』より)

⑧設計者 日名子実三(=ひなこじつぞう、大分県出身、彫刻家)
日本サッカー協会の八咫烏のエンブレムの作者でもある。「八紘之基柱のお話を受けた時「輝く二千六百年に当り多くの彫刻家の中から選ばれた事に感激し、これは天與の使命である。一億の力によって一番よい力を私に與へられたのである」と感じました」とし、「そこで神の御信頼に対して報ひ奉らん事を思ひ、宮崎神宮に詣うで神助を祈りました。其時に御幣を拝した折、何か建築的なインスピレーションを感じました。御幣のみでは建築的に出来ませぬから、五瀬命で楯を建てゝ男叫びなされた事を思ひ楯と御幣の形を併せ、しかも葦牙の如萌え騰る感じを表はしたのです」(「散華」)と書いている。

⑨揮毫
昭和天皇の弟宮・秩父宮雍仁親王殿下のご親筆。英国留学で面識のある相川勝六知事が殿下に直接依頼。「手習いせねばならない」との殿下の申し出を受けて、福井県今立村の岩野平三郎謹製「越前鳥子紙」を百枚送付したところ、後日戻ってきたのは僅か二十枚程であったというエピソードを残している。

⑩奉仕者数
「祖国振興隊」(昭和12年11月18日結成)隊員延べ65000名にも及ぶ奉仕団の献身的な奉仕作業があった。全国からの視察も多く、宮崎県の祖国振興隊は国民精神総動員運動の「全国的典型」となった。

⑪塔の内部
吹き抜けになっていて、入口正面に「厳室」(いつむろ)と呼ばれる祭壇が設置され「八紘一宇」のご真筆が掲げられていた。また現在も「天孫降臨の図」、「国土奉献の図」、「鵜戸の産屋の図」、「神武天皇即位の図」、「明治天皇東京遷都の図」、「地球太平洋の図」、「地球大西洋の図」、「民族協和の図」の8枚の石膏レリーフが壁面に張り巡らされている。天孫降臨から始まる日本の国柄を表象するもので、「東京遷都」を挟んで「八紘一宇」に込められた民族協和の理想が表現されている。

「八紘一宇」の熟語は戦後、国威発揚のスローガンとされて昭和21年「神道指令」によって「大東亜戦争」などの呼称と共に使用禁止となりました。
塔正面の「八紘一宇」の文字は取り剥がされ、更には「荒御魂像」(武神像)、日高重孝の「定礎の辞」(塔正面扉左)、「大日本国勢図」(塔裏)は撤去。また塔内のご親筆も除去。一時はロッククライマーの練習場となるなど荒廃。昭和37年10月5日「武神像」が、また同40年1月28日には「八紘一宇」の文字が復元されました。

現在では「平和の塔」と改名し、多くの観光客や市民の憩いの場として賑わう場所となっています。
 

「言葉が独り歩きして」と言われますよう、言葉とは発した側の意図に関わらず、受け取る側の人間、その立場、時代等によって、意味、使われ方が変わってきます。

 

「八紘一宇」

我々神職は、言葉に込められた真の意味を理解し、護持していかなければなりません。

 

神武天皇様は如何なる思いで居られるのでしょうか・・・

教えて神主さん!⑲~式内社?~

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教えて神主さん!
執筆 : 
office 2014-10-20 10:30

前回の続き・・・

 

奈良県神道青年会創立五十周年記念式典を終えた翌日。

どうにか集合時間の8時30分には準備を整え、予定通り奈良県宮巡へ出発!

方向音痴な私はどの方角に進んでいるのかもよく分からず、バスに揺られること数十分。

先ずは生駒郡三郷町鎮座の龍田大社へ。

天と地の間、即ち大気・生気・風力を司る神様で「風神」として有名な神社です。

ここでは正式参拝。

拝殿は四方から風が吹き抜け、非常に清々しい参拝となりました。

 

続いては北葛城郡河合町鎮座の廣瀬大社へ。

主祭神は水の守り神様で、大和盆地を流れる総ての河川が一点に合流する地に

鎮座されています。

各お社にて宮司様をはじめ職員の方々には、ご厚遇に預かりましたこと衷心より

厚く御礼申し上げます。

 

ちなみに龍田大社、廣瀬神社は『式内社』(しきないしゃ)であります。

式内社とは延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)に記載された神社のこと。

延喜式とは、律・令・格の施行細則を集成した法典であり五十巻から成る書物で、醍醐天皇の

命によって延喜五年(905)八月に編纂を開始し、二十二年後の延長五年(927)十二月に

完成奏上されました。その後も修訂が加えられ、施行に移されたのは四十年後の康保四年

(967)十月でありました。

五十巻の内の巻一~十が神祇官(じんぎかん)関係の式であり、つまりは神社に関すること。 

内容 詳細
一・二 四時祭上下

恒例の祭祀の各々について、とくにその祭料の品目、数量を中心

とした規定

臨時祭

霹靂(へきれき)神祭以下の臨時の祭について、主として祭料に

関する規定

伊勢太神宮 伊勢の皇太神宮・豊受大神宮に関する諸規定

斎宮寮

(さいぐうりょう)

伊勢太神宮の斎内親王、斎宮、斎宮寮などに関する規定
斎院司 賀茂大神の斎王関係

践祚大嘗祭

(せんそだいじょうさい)

天皇即位後に行われる一世一度の践祚大嘗祭に関する細則
祝詞 二十七編の祝詞が集められている
九・十 神名帳上下 当時の官社の一覧表

巻九・十に記載された神社が『式内社』であって、由緒ある神社としてその社格を誇ることができました。

その数は3,132座、2,861社。(座=神様の数、社=神社の数)

これらの神社は、少なくとも延喜式が完成した延長五年(927)には鎮座されていたということになります。

 

さらに式内社は以下の様に区分されます。

区分  
官幣大社  304座  198社

京畿内中心に全国に散在したが、現在の北海道はもちろん九州

にも置かれなかった

官幣小社  433座  375社 畿内のみ
国幣大社  188座  155社 畿外に分布
国幣小社 2207座 2133社 畿外に分布

(官幣社=神祇官から幣帛を受ける社  国幣社=その社のある国から幣帛を受ける社)

この分布からも分かるように、官幣社は神武天皇さまが宮崎よりご東遷の末、ご即位された

奈良県を中心に偏っており、地理的な要因が大きく関係していたと思われます。

 

その内の286座、216社が奈良県(大和国)に鎮座されます。

ちなみに宮崎県(日向国)には式内社は何社あるでしょうか???

①4社

②40社

③400社

 

答えは・・・

 

なんと①の4社。

 

都農神社都万神社江田神社、霧島神社がこれにあたります。

霧島神社は霧島岑神社東霧島神社霧島東神社霧島神宮のいずれかではないかと

言うことだそうです。

 

式内社は中世には官社の形骸化とともに実態は失われたのですが、名称自体は一種の社格として現在にも残っております。

 

長々とした説明となりましたが、お分かりいただけたでしょうか???

 

さて話は奈良県宮巡に戻りますが、その後一行は

法隆寺を最後にお参りし、伊丹空港にて解散となりました。

 

あっという間でしたが、非常に有意義な2日間となりました。

奈良県神青会の皆様には、ご多忙中にも拘わりませず終始お付き合いいただき

誠に有り難うございました。

 

来年は宮崎県高千穂町にて交流事業を開催予定です!

皆様お揃いでのお越しを会員一同心待ちにしております(^_^)/~

 

おおきに! ほなな~(^^)/ 

本日は終戦69回目の終戦記念日。

宮崎県護国神社についてお話致します。

 

宮崎県護国神社の御祭神は、正殿に明治戊申の役以降国家公共に尽くした人の神霊四万一千八百十八柱、相殿に公務殉職者の神霊五十四柱がお祀りされています。現在お祀りされている神霊は、総じて四万一千八百七十二柱(平成二十六年三月現在)となっております。現在でも合祀される神霊があり、本年(平成二十六年)も四月十日の例大祭の前夜祭に併せて、合祀祭が斎行されます。また、皆さまもご存じかと思いますが、護国神社の御祭神と靖國神社の御祭神は同じでありまして、靖國神社の神霊二百四十六万六千余柱の中に宮崎県護国神社の神霊も含まれているのです。

【ご社殿の造営】
全国道府県の護国神社は殆ど明治維新の際に招魂社として創立され、戦前より慰霊の祭儀が行われていました。しかし、宮崎県は当時、小藩分立の状態等の事情もありまして、県内全域の神霊を祀る招魂社は創立されていませんでした。そこで県としては移設のできる小さな社殿を造り、毎年祭場を設営して県下全戦没者の招魂祭を執り行っていました。
昭和十六年十二月大東亜戦争の勃発により戦没者の数が急増し、護国の英霊に対する県民の感謝と敬揚の念が次第に深まりました。そこで県民の要望に応えるため、当時の知事をはじめ各界の代表者が設立者となって、宮崎県護国神社建設奉賛会を組織されました。

昭和十八年四月二十三日に内務大臣の許可を得て、鎮座地を宮崎市下北方の高台(現宮崎市立大宮中学校)に定め、同年五月十日に地鎮祭を斎行、建設工事に着手しました。

創建予定地地図

 

しかし、昭和二十年三月十七日には硫黄島が玉砕、ついに宮崎県下もアメリカの戦艦機の編成による空襲をうけ、建設は思うように進みませんでした。連日の空襲により、同年五月三十一日を以て建設工事を中止し、そのまま昭和二十年八月十五日終戦を迎えました。終戦後は神道指令により、宮崎市内では学校等の神棚を宮崎神宮に集めて消却し、また護国神社におきましても創建奉賛会の解散を命じられ、当時の宮崎軍民生部長官マスマン少佐の厳命により建設途中の社殿は解体、土地を手放すこととなり、建設の放棄を余儀なくされました。
しかしその後、講和条約の発効を見るに至り、護国神社再建の要望が澎湃(ほうはい)として起こったので、昭和二十八年四月に宮崎県護国神社政権奉賛会を組織して、県民の浄財をつのり神社の再建に着手し、現在地に昭和三十年三月竣工、同日鎮座祭を斎行し今日に至るのであります。

【護国神社と宮崎神宮】
宮崎神宮の西の森に創建された当初は、宮崎神宮と一体の運営がなされていました。
当時の宮崎神宮片岡宮司は「戦没された人々は、宮崎神宮をはじめ、それぞれの産土神社に武運長久を祈願して出征されたのであり、その神霊をお祀りする護国神社は、県下六百余の神社を代表して宮崎神宮が宮司以下全員無報酬により護持する。大祭には県下の全神職が奉仕する精神を以て神社庁支部長も奉仕する。時代の変革あるも宮崎神宮の現存する限り護国神社の祭祀を欠かさないようにする。」との方針をもって維持運営されていました。
しかしその後、ご遺族を始め多くの県民から独立神社にふさわしい運営をとの願いにより、昭和四十七年四月より専任の職員を置くようになりました。

【例大祭】
護国神社では、県内神職の奉仕により毎年四月九日に前夜祭併せて合祀祭、四月十日に例大祭が斎行されていますが、本来の例祭日は三月十日でありました。これは昭和三十年三月十日に合祀鎮座祭が斎行されたことに由来します。しかしながら、宮崎県戦没者等慰霊奉賛会会長より、三月十日は例年定例の県議会開催中につき、慰霊奉賛会総裁(知事)、会長(県議会議長)の参列が困難であるとのことから、例祭日変更の申し出がありました。また、県下の一万二千人の遺族にとっても、時期的に肌寒いため参集が困難であるという事情も考慮して、例祭日は昭和五十三年に四月十日と改められ現在に至ります。
このような事情から例祭日が変更されたにもかかわらず、近年、例大祭総裁は祭典終了後にお参りされています。公私共にご多忙であり、社会情勢を踏まえての事と存じますが、県民を代表して日本国に命を捧げられた神霊に対して、堂々と参拝をされます事を切に願います。

【現在の護国神社】
現在、宮崎県内の御遺族は約一万人近くを数えます。しかし御遺族の高齢化とともに、参拝者は年々減少の一途をたどっているのが現状です。この状況に危機感を抱き、戦没者遺族の意思を継承をすべく、平成二十五年十一月には御英霊の孫、曾孫を中心に組織する「宮崎市遺族連合会青年部」が設立され、慰霊祭等の活動が行われています。
平成二十七年は終戦から七十年の節目にあたります。改めて先人達の尊い犠牲の上に、今の平和な国日本があることに感謝をするべきではないでしょうか。我々の使命は、祭祀を通して御英霊を顕彰することはもちろんのこと、平和な世の中と命の尊さを後世へと語り継ぐことだと思います。

教えて神主さん!⑰~大祓~

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教えて神主さん!
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office 2014-6-4 16:05

多くの神社では6月30日と12月31日に行われる神事で、「おおはらい」と読みます。
 

大祓とは日々知らず知らずのうちに犯し、また他より受けた種々の罪穢を半年毎に心身を

清浄化し、生活の安定と発展を祈るものであります。

我が国上代より行われており、これが今日宮中を始め神社で行われてる大祓式に制定

されたのは、大宝元年の頃からで6月、12月の晦日に行うことが定められました。

 

我が国では大昔より浄明正直を生活の基本として、代々受け継いできました。

そこでは「祓」が 最も大事な行事とされており、古くから大祓として夏と冬の年2回それぞれ

行われる習わしとなっています。

 

特に夏越の大祓は「陰湿生ずる時なれば病を恐る」と云うように 今日のような医療の術も

なかった上代においては、、疾病の如きはすべて心身の穢から生ずるものと信じられ、

祓を修し禍を除く為に大祓の行事が民間でも盛んになったと考えられます。

 

 

また夏越大祓でよく目にするのが、茅の輪と云う茅(かや)で奉製した祓具をくぐる

「茅の輪くぐり神事」です。


 

「みな月の夏越の祓いする人は千歳の命のぶと云うなり」

と、唱えながら左右左と3回廻り最後に正面に整列して拝礼し無病息災を祈ります。

茅輪の起源は釈日本紀の備後風土記逸文に、神代の昔、武塔天神が蘇民将来に

「若し天下に悪疫が流行した際には、ちがやを以て輪を作り、これを腰につけておけば

免れるであろう」という故事に基づいたものであります。

参列者はこの茅を持ち帰り家々の門口にさし、魔除とする人も多数おられます。

 

神社の大前に於いて祓い清めて、清々しい生命力を復活させるこの神事は、誠に意義

深いものであります。

是非ご参列いただき、残りの半年も清々しくお過ごしになられますようお祈り致します。

 

夏越の大祓のご案内

期日 6月30日

○宮崎市 ・宮崎神宮 午後5時

○延岡市 ・今山八幡宮 午後5時  ・春日神社  午後6時30分

○日南市 ・鵜戸神宮  午後4時

○都城市 ・神柱宮 午後3時

○高原町 ・狭野神社 午後3時

○都農町 ・都農神社 午後3時

※上記以外の神社でも斎行されているかと思います。

お近くの神社にお問い合わせ下さい。

 

「けんぺいし」と読みます。

 

本日2月17日は多くの神社にて祈年祭が斎行されたことと思います。

(祈年祭についてはこちら

 

神社には例祭、祈年祭、新嘗祭と特に重要なお祭りが3つあったのを覚えてるでしょうか?

献幣使は例祭の時に登場します。

「なんでウチの神社の祭によその神主さんが来て、祝詞を読んじょっとか~?」

と、思ったことありませんか???

その神主さんこそが「献幣使」なのです。

 

献幣使とは、神社本庁から所属の各神社に幣帛(へいはく)を捧げる使いのこと。

例祭には神社本庁幣(幣帛料)を供えます。

これを献幣と呼ぶので、その使いが献幣使ということになります。

ちなみに幣帛とは神に奉献するものの総称のことです。

 

じゃあ何をするの???

去る2月1日に鵜戸神宮(日南市鎮座)の例祭に、献幣使随員(ずいいん)として奉仕させて

いただきましたので書き記したいと思います。

 

多くの場合は、献幣使と献幣使随員(献幣使の付き人と思っていただいて結構です)の

2人で奉仕する神社に向かいます。

先ずは参籠(さんろう)の為、前日の夕刻に鵜戸神宮入り。

参籠とは神社に籠もり心身を清めることで、その神社の神主さんももちろん参籠されます。

 

先ずはお参り。

鳥居の後ろの空洞に、

ご社殿があります。

神主さん達が習礼(しゅらい=祭典のリハーサル)をされていました。

普段奉仕する神社とは勝手が違いますので、献幣使も入念に打ち合わせを致します。

 

有名な運玉!お参りの際は是非やってみて下さい。

 

打ち合わせを終えると夕食。

斎食(さいしょく)と言いまして、四つ足の動物は食しません。

 

斎食後は入浴、翌日に備えて早めに就寝ですzzz

 

翌朝は6時30分起床!

この光景は鵜戸さんならではですね~

 

朝食をすませ、祭典の準備準備。

時刻がせまってくると、献幣使の装束を準備し、着装(着付け)を行います。

その後、自分もあたふたしながら着装となります。

 

午前10時30分、祭典開始。

自分の神社より緊張するのは言うまでもありません・・・

ちなみに幣帛料は、唐櫃(からひつ)と言われる箱に入れて社殿まで運びます。

 

宮司祝詞奏上後、いよいよ献幣使の出番。

幣帛料を献幣使随員が、鵜戸神宮の神主さんにお渡しし、神前にお供えしていただきます。

その後に献幣使祭詞奏上(さいしそうじょう)、玉串を奉りて拝礼。

神社の神徳を顕揚し、斯道の興隆を祈願し、奉賛の誠を捧げます。

 

祭典終了後は直会(なおらい)。

直会とはお祭りにおける酒宴行事のことで、祭典を構成する一つの行事。

運転手の私はもちろんノンアルコール・・・

地元の神主さん、総代さんのお話を聞かせていただいたり、とても貴重な時間です。

 

以上になります。

 

文章にすると思いのほか、自分でも「ふ~ん」という感じになってしまいましたが、

なんとなくでもお分かりいただけたでしょうか??? 

 

まぁまぁ・・・

頭の片隅にでも留めていただければ有り難いです<(_ _)>

じっかんじゅうにしと読みます。

 

平成26年は、
①紀元2674年
②西暦2014年
③甲午歳
④昭和89年
になります。

①については、「日本書紀」の記述を基にしたものです。

宮崎神宮のご祭神・神武天皇は15歳の時に皇太子になられ、宮崎に都を定められました。

しかし、この国の人々が豊かに暮らせるようにするには、四方を青い山にかこまれた大和

(奈良県)に都をおくのがよいと思われ、45歳の時に宮崎をおたちになり、大和へ向けて

すすまれました。そして、宮崎をおたちになって7年目の正月朔日(現在の2月11日)に

畝傍の橿原の地に宮殿を建て第一代の天皇にご即位されました。

この年を”紀元元年”(建国記念日)とし、平成26年は紀元2674年にあたります。

 

②、④については皆様ご存じと思います。


③については、言うまでもなく干支になります。
今年は甲午(きのえうま)歳になります。

※十干

干は幹の略字、十干または「え」「と」とも言います。

「え」は兄で陽性、「と」は弟で陰性を表します。

甲(きのえ) 丙(ひのえ) 戊(つちのえ) 庚(かのえ) 壬(みずのえ)  
乙(きのと) 丁(ひのと) 己(つちのと) 辛(かのと) 癸(みずのと)  

 

※十二支

そもそも干支とは、古代中国で十二宮のおのおのに獣を充てたのに基づくと言われます。

支は枝の略字、十二種類あります。

陽性、陰性を表すと次の通りです。

子(ね) 寅(とら) 辰(たつ) 午(うま) 申(さる) 戌(いぬ)
丑(うし) 卯(う) 巳(み) 未(ひつじ) 酉(とり) 亥(い)

普通十干と十二支とは組み合わせて用いられ干支(かんし)を「えと」と称するに至ったそうです。

日や年を数えるための記号として使われています。
”10”干と”12”支
これが組み合わされるのですから、10と12の最小公倍数は”60”ですので、
前回の甲午年は、昭和29年になります。
つまり生まれた年と同じ干支の巡ってくる還暦とは、”暦が還る”という意味ですから、

満60歳をむかえる昭和29年生まれの方が本年これにあたります。

ちなみに平成27年は乙未歳(きのえひつじ)、平成28年は丙申(ひのえさる)歳となります。

 


さて「午」は季節でいえば六月、水無月の田植えの頃であります。
時間でいえば真昼(午前11字から午後1時)で、暑い日差しがさんさんと降り
そそいでいる頃にあたります。
いうならば、植物がむんむんとして成長する、そんな盛んな有様が午という字の
意味であります。
また午は十二支の第7位でありますが、方向は真南にあたります。
このような行動性と陽気さをあわせもつうま年は、個人にも国家にとっても、
極めて活気に溢れた年であると考えられます。

 

この年が皆様にとりまして幸多き年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。

本年もどうぞよろしくお願い致します。