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宮崎県の神社

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  • 住吉神社(すみよしじんじゃ)岡富

    住吉神社(すみよしじんじゃ)岡富

    第十三代成務天皇の御代、武内宿祢をして日向五郡を定めた時、岡富邑三十町の鎮守として奉祀すると伝え、「宮崎県史蹟調査報告」によれば、大同元年(806)十月十二日の創建とされている。貞享三年(1686)寅四月十一日、社殿火災にあい器物はことごとく焼失した。現在の本殿は元禄十五年(1572)二月七日に造営されたものである。明治四年十一月村社に列せられた。
    当社は鎮座以来、一ツ瀬川左岸の丘陵地に奉祀されていたが、昭和五十年秋、航空自衛隊新田原基地周辺移転措置に伴う集団地区移転によって、現在地に遷座されたものである。
    岡富神楽(三十三番)があり、例祭等に奉納されている。また安芸(広島県)の宮島、厳島神社の海中の大鳥居の用材は、文久三年(1863)境内にあった楠の大木を奉納し建立されたものである。航海守護、方除け、交通安全の守護神として崇敬されている。
    又、大歳大神(農作物の守護神)、稲荷神(商売繁昌)、天満宮(学業成就)の神々もおまつりされている。

    電話番号
    (0983)42-5237
    郵便番号
    881-0001
    住所
    西都市大字岡富963番地
  • 大歳神社(おおとしじんじゃ)

    大歳神社(おおとしじんじゃ)

    三財川下流左岸の農村地帯黒生野町西園に鎮座する。
    元禄十二年(1699)東山天皇の御代に改築したと棟札がある。それ以前は不詳。
    都於郡城主伊東氏、社領三十町を寄進し、代々崇敬の厚い神社であった。
    大歳の神は伊邪那岐命の御孫であり、父君の命は素戔嗚尊であらせられ御両神は共に農業を司る神様で五穀豊穣の守護神である。御創建年代は古く定かでないが、戦前戦後まで生い茂っていたご神木と思われる楠の大木は一千年以上も立っていたと古老は云っている。現在の神殿は享保前期のもので、神殿は流造を数奇屋造りで囲み太古よりこの村に住んでいた人々が「母なる大地は父なる天の恵みにより受胎する」との古代日本の民族思想により五穀豊穣、万物の育成、国土の八発展を神に祈ったのに始まり、家業繁栄、開拓「生産」の祖神として崇められ「産むは生む」に通じ、子授け、安産、縁結、夫婦円満、商売繁盛、厄除、開運、諸病の平癒の守護神として崇敬されている。
    また古代には今も残る神社前の道路には巾広い流鏑馬の跡があり、賑やかな祭行事で催し物があった事を物語っている。
    明治四年十一月村社に列せられた。

    電話番号
    (0983)42-5237
    郵便番号
    881-0002
    住所
    西都市大字黒生野327番地
  • 霧島神社(きりしまじんじゃ)西都市右松

    霧島神社(きりしまじんじゃ)西都市右松

    当社の創建は不詳であるが、「宮崎県史蹟調査報告」によると、「本社は年時不詳、字滝下の地に勧請したものである。社地は一ツ瀬川の左岸山上なる、霧島塚にして、往古河川変遷により、社地を貫流し住民等は西岸に居を移すに至り、元亀元年(1570)九月現地へ移奉、滝下・薗元両部落の産土神として崇敬し、霧島塚は今尚衆庶の崇敬する所である」としている。

    電話番号
    (0983)42-2870
    郵便番号
    881-0003
    住所
    西都市大字右松669番地
  • 右松神社(みぎまつじんじゃ)

    右松神社(みぎまつじんじゃ)

    本社の創建は不詳であるが、古老の言によれば、天平年間(729~749)山城の国五条天・紀伊粟嶋大明神・出雲の国手向天神と同時に、日向国粟野大明神として、本村岸見の里に社殿ご造営奉祀されたと伝える。
    建久年中、伊東氏が日向の地を領した際、供田を奉納し、篤く本社を尊崇した。しかし天正以後は右松村の氏子中において祭米を醵出し、祭典を行ってきた。はじめ社殿は南面して鎮座していたが、正長元年(1428)十月現在の社地に再建、東西面として遷座した。
    祭神少彦名命は神仙禁壓の大祖神であり、右松村の産土神として村民に篤く崇敬されてきた。明治維新の際、村社に列せられ、明治四年右松神社と改称した。明治四十三年より神饌幣帛料を供進する神社に指定される。

    電話番号
    (0983)42-2870
    郵便番号
    881-0003
    住所
    西都市大字右松2002番地
  • 日吉神社(ひよしじんじゃ)

    日吉神社(ひよしじんじゃ)

    当社は社殿日記によると「近江国滋賀郡日吉神大物主命と同体なり。比叡山守護神山王大権現は、後三条天皇延久三辛亥年十月二十九日、西海道日向国児湯郡現王島に勧請」とある。また鎮座記によれば、「比叡神他本地は大己貴命也、二十一社内に大若子神勧請」とある。
    現王島宗廟日吉山王大権現と称したと伝え、その後大洪水の時、およそ十丁離れた現王口という所に社殿が流れ着き、再び元の社地にご遷座したと伝える。しかしその際に宝物古文書古器物等流失してしまった。この現王口という所には日吉山王社が今も祀ってある。
    現王という地名は、狭野尊(さののみこと:神武天皇の幼名)が日向国宮崎郡佐土原の地にご降誕された時、尊のの臍の緒を納め奉った地であるといい、古くは現納と言っていた。当地は佐野をへだてること八丁余にして、中古になって現王と改めた。尊の臍の緒を納めた跡として、社殿の側に古石を建て、そこを諸人は産の神または大若子神と称えて尊崇した。狭野尊ご降誕の地は、佐野の原中に一の小森遺存し、往古より社殿があり霧島五社大明神として崇め奉っている。

    電話番号
    (0983)42-3816
    郵便番号
    880-0341
    住所
    西都市大字現王島82番地
  • 清水神社(きよみずじんじゃ)

    清水神社(きよみずじんじゃ)

    一ツ瀬川支流の三納川、山路川にかこまれた平地に位置し、地内各所に古墳が散在し、二十五基が清水、西都原古墳として県史跡に指定されている。古老の伝説によれば、本社は火闌降命を主祭神と、父神瓊々杵尊と母木花咲耶姫命を合殿に奉祀する。命が上古清水字松本の地に住んだとして、いまなおこの地に命の御手洗または、神籬の里と称する遺跡を存し、古名笠狭の原中に大陵があり、命の山陵と伝える。
    当社の創建は社伝によれば、建久二年(1191)松本の地に鎮座と伝えるが、「宮崎県史蹟調査報告書」によれば、天喜元年(1053)に字松崎に鎮祭したとあり、一定しない。石貫神社祠官であった横山家の古文書中、建久年間のものによれば、神領として九町四段三十歩を有し、年間四十二度の祭典が行われていたという。永和二年(1376)清水に遷座し、清水村宗廟若宮大明神と尊称した。
    応仁二十二年(1488)伊東亮堯の代に神殿を再建し、供田を捧げ、妻第一の清水若宮大明神として崇敬された。古来より伝える祭日は、旧九月初午日を大祭とし、また七月七日都万神社で斎行される木花咲耶姫命が天孫にご入内の旧式を、この社殿においても同日行う。これを都万神社の御同神祭といい伝える。これは命の母神を祀りて尊敬する意である。また、小祭には旧二月初午日及び十一月の午の日の両度ある。元和二年(1616)九月十七日、延岡藩主有馬直純穂北の地を領する時、神殿を再建し供田を捧げた。有馬氏東国に転ずるに及び、牧野氏の所領となり牧野真俱の代に供田は旧来通り寄進され、さらに、徳川幕府の御料となっても旧来通り供田が寄進された。明治四年村社清水神社と改称し、明治四十円二月、神饌幣帛料供進神社に指定された。
    また境内社として稲荷神社がある。

    電話番号
    (0983)43-4326
    郵便番号
    881-0004
    住所
    西都市大字清水36番地
  • 印鑰神社(いんにゃくじんじゃ)

    印鑰神社(いんにゃくじんじゃ)

    成務天皇の朝、此地に国府が設置され、その当時(131~190)の創建と伝えられている。
    「日向一ノ宮印鑰大明神」と往時より尊崇され、日向一ノ宮の額面を現存している。創建の由緒正確なるも明細帳脱漏のため明治四十一年七月三十一日無格社として編入、ご神体には印および鑰を奉戴すると伝えられているが確定できない。印鑰は国衙の印やその不動倉などの鑰(かぎ)または神社・神主家の印などで、それらの印は国衙領や神領文書に捺され、その鑰は穀倉開閉に重視された。そのため印鑰を印殿に祀る印鑰神社が国府近くに建立されており、本社もその一つであろう。
    日向国府は、今の西都市三宅に置かれたと考えられており、国分寺跡(県史跡)や国分尼寺跡とみられる遺蹟が近くにあり「続日本記」天平勝宝八歳(756)の記述から、日向国分寺もこのころすでに建立されていたとみられている。

    電話番号
    (0983)43-4767
    郵便番号
    881-0005
    住所
    西都市大字三宅2844番地
  • 可愛塚神社(えのつかじんじゃ)

    可愛塚神社(えのつかじんじゃ)

    国の特別史跡に指定された西都原古墳群中に鎮座し、社地近くには九州最大の巨大古墳として知られる男狭穂塚、女狭穂塚がある。男狭穂塚は、古くは可愛山陵または可愛塚と称し、邇々杵命のご陵と伝えられ、明治二十九年陵墓参考地として指定された。郷土民の信仰的な歴史的遺産として、中世末期には山陵祭が執りおこなわれていたという。女狭穂塚は木花開耶姫のご陵といわれ、明治二十九年陵墓参考地に指定された。よってここに当社を創建し、神霊を奉祀したものという。
    現在ご社殿は、三宅神社境内に移築されている。

    電話番号
    (0983)43-4767
    郵便番号
    881-0005
    住所
    西都市大字三宅3415番地
  • 三宅神社(みやけじんじゃ)

    三宅神社(みやけじんじゃ)

    三財川支流山路川流域に位置し、当地は古代の日向国府の所在地とみられている。地名の由来は、古代屯倉が置かれていたことにちなむと伝える。付近には、昭和二十七年国の特別史跡に指定された西都原古墳群が広がる。古墳群は公園として整備され、昭和四十一年風土記の丘に指定された。付属施設として西都原資料館などもある。
    当社は旧称を覆野大神宮、福(覆)野八幡宮、覆(野)神社と称し、建久八年(1197)の「建久図田帳」にも「福野宮神田二五町」と記され、それ以前の創建とみられる古社である。古来三宅郷ならびに、右松村の産土神で三宅・清水・黒生野・現王・岡富・右松・調殿・童子丸・南方・穂北の宗廟であった。歴代領主の崇敬を受け、土持・伊東両氏より五十五町八反の社領が寄進され、弘治年間(1555~58)には神田十八町三反余、畑六反、神戸十八、神苑106ヶ所を付近一帯に有していた。天正年間兵火にあったが、島津義久が再興した。その後文化七年(1810)十二月十六日火災にあい、旧記・宝物等殆ど焼失してしまった。社職も大宮司、権大宮司、主税儀大宮司、器大宮司などがあったといわれ、年間の祭典も九十七回に及んだ。応永元年(1394)から行われてる天孫降臨祭(六月夏至)・国家安穏祭(八月五日)・山陵祭(十月一日と十一月初卯の日)の当社三大祭りは、京都加茂の祭式にも比すべき荘厳なものであったといわれ、古社の趣がしのばれる。江戸時代後期には西都農神社と改称し、明治四年三宅の地名をとり、現社名に改めた。
    当社の御祭神について「宮崎県史蹟調査報告」によれば、邇々杵命を正殿中央に、天児屋根命天太玉命を左右に配祀し、相殿には大物主命、石凝姥命、木花開耶姫命、神日本磐余彦命、応神天皇を祀り、更に降臨に供奉した六十四神をこれに配した。摂社には大山祇命、事勝国勝長狭神、火闌降命等の七神、末社には倉稲魂命、合社には保食神、門社には豊磐間戸命、櫛磐間戸命を祀る。合計すると八十四神になる。さらに、明治五年、三宅村字山路の川上神社、五穀社、天満社、字上ノ宮の五穀社、霧島社、字酒元の筑波山篠貫社、字石貫の今宮社、字山王の山野社等の三十九神を合祀したと記している。

    電話番号
    (0983)43-4767
    郵便番号
    881-0005
    住所
    西都市大字三宅3415番地
  • 石貫神社(いしぬきじんじゃ)

    石貫神社(いしぬきじんじゃ)

    古くは日能若宮又は石貫大明神と称し、創建は天平五年と伝え、一千有余年の社歴を有する古社である。その社地は創建時の記録「日能若宮元元由来記」によれば「大山祇命(中略)阿佐久良山槵木原五百世山元築波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺称と伝える。往時は社殿、境内、宏荘森厳で、真に筑波御殿の名に背かざるものであった。弘治二年(1556)六月の「古帳神社知行目録」によれば、神田十二町一反歩を有し、応永二十四年(1417)社殿改修に当たり更に神饌田が加増され、以来応永二十五年、二十六年、二十七年、永享二年(1430)四月、同十一年五月、天文三年(1534)四月、同年十二月にわたりて、神饌田の増加の記録が現存する。しかし天正十五年(1587)豊臣秀吉、島津出兵の際、羽柴秀長、兵を率いて都於郡に陣営した時、当時の石貫神社の祠官が軍令に従わなかった事によって社領は没収された。明治初年神社明細帳制定に際してもまた登録を脱漏することになった。明治十四年十二月二十七日付明細帳編入を出願し昭和十六年四月無格社となった。
    境内神社として、赤井神社(祭神・木花開耶姫命外一柱)、門神社(祭神・岩間戸二柱之神)、二宮神社(祭神・児屋根命、太玉命)、風神社(祭神・級戸神外四柱)、篠貫神社(祭神・磐長姫命)がある。

    電話番号
    (0983)43-4326
    郵便番号
    881-0005
    住所
    西都市大字三宅4615番地ロ号
  • 都萬神社(つまじんじゃ)

    都萬神社(つまじんじゃ)

    御創建の年代は定かではないが、当神社が初めて史書にみえるのは、「続日本後紀」で、仁明天皇承和4年(837)8月の条に「日向国子湯郡妻神宮社に預かる」とあり、また「三代実録」の天安2年(858)の条にも神階昇格の記載がある。更に延喜式神名帳には日向国4座の内、児湯郡2座として都農神社とともに都萬神社が記載されており、式内社といわれる所以である。当神社はこれらの文献にみえるより更に古く奈良時代には存在していたと思われる。建久年間(1190~1199)伊東氏日向を領するや供田を献じて奉賽に務め、慶長8年(1603)島津以久公佐土原に封せられ4代藩主忠高は妻村内315石を社領として安堵するなど伊東氏に引き続き島津氏も都萬神社に対する尊崇の誠が示されており、往年の盛儀が偲ばれる。その後明治6年県社に列せられ、明治40年には神饌幣帛料供進指定を受けるなど古来からの尊崇は明治維新以後も衰えることはなかった。

    ○女性に縁のある御神徳
    御祭神木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)が天孫 瓊瓊杵命(ににぎのみこと)と結婚され3皇子を無事出産され立派にお育てになったことから、縁結び、安産、子育ての神として最近若い女性の参拝者が増加している。

    ○日本一の大太刀
    上古12代景行天皇熊襲御親征のため、都於郡高屋行宮に駐まらせ給うた時、大太刀を奉献賊徒平定を御祈願された事に倣って、宝徳2年(1450)日下部成家が奉納したと伝えられる。昭和48年2月「日本一の大太刀」として日本刀剣会より銘打ちたる。
    刃渡り約2.4m、長さ約3.54m、重さ約63.75㎏。

    ○妻のクス
    樹齢約1200年の大クス、国の天然記念物に指定。

    ○生産河(しゅさんご)
    手でなでると子宝に恵まれるという大きな石のある泉。

    ○千年クスの洞洞木
    台風によって折れた御神木のクスで作られた木洞。この木洞を潜り抜けると夢がかなう、幸せを招く、願いがかなうといわれる。

    電話番号
    (0983)43-1238
    郵便番号
    881-0033
    住所
    西都市大字妻1番地
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