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宮崎県の神社

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  • 田野神社(たのじんじゃ)

    田野神社(たのじんじゃ)

    当社は、古来の伝説によれば、天文二十一年(1552)田野集落に悪病流行し、集落民ほとんど病臥しその上食糧の不作が続き、集落民餓死寸前に至り、時の弁差士集落民を集め妙見神社を祭り、毎年旧暦十月二十五日を例祭日とし盛大に祭祀を行うようになったと伝える。その後社殿が老朽化したので、現在地に鎮座地を移転、昭和十一年に社殿を新築した。当地には火照命が鎮座されていたが、妙見神社移転新築と同時に当社に合祀され田野神社と改め、祭日も十一月二十三日となる。

    電話番号
    (0982)69-3435
    郵便番号
    883-0105
    住所
    日向市東郷町山陰己1052番地丙
  • 天神社(てんじんじゃ)東郷町

    天神社(てんじんじゃ)東郷町

    当社の由諸沿革について古老は「往古より人民ら少彦名命・大山祗命の二柱を斎きまつる本社を、篤く尊崇し奉り来りしが、永禄三庚申利(1560)社殿を改造して、十一月二十四日遷宮式仕えまつりし以来、十一月二十四日を大祭日と称して、毎年盛んなる祭典式を仕え奉り来れり。天正年間(1573~91)豊後国の大友宗麟日向国に乱入の際、社殿及び宝物、古文書類等兵火にかかり、ことごとく皆焼失せしなり」と言い伝えている。『日向地誌』によれば、祭神は少彦名命・大山祗命を合祀す、とある。
     所蔵の棟札によれば、延享二年、寛延庚午年、明治四年、明治七年に再興されている。

    電話番号
    (0982)59-0590
    郵便番号
    883-0213
    住所
    日向市東郷町下三ケ1483番地
  • 福瀬神社(ふくせじんじゃ)

    福瀬神社(ふくせじんじゃ)

    当社社宝とする棟木に養老元年(717)の文字が見えたが腐蝕甚だしく判明できない。天文三年(1524)十一月代官天氏弘吉が再興して社殿を営んだ。しかしこの社地は洪水毎に流失するので永禄三年(1560)二月現在地に遷座した。創建以来890年余年崎山字に鎮座された。以来400余年を経て今日におよんでいる。その間度々社殿の改築をみたが、就中永禄三年の神社改築に当っては伊藤義益(義祐の嫡男)は武運長久を祈願して神殿一字を奉献建立した。此の神殿は昭和四年(1926)の改築に至る迄390年余年間神殿としてあったもので、現在境内神社八坂神社の神殿として保存され藩主の定紋を止めている。以来大名武人の信仰厚く、天正四年(1576)十二月代官天氏弘実上屋を営み、享保五年(1720)十一月川越諸左衛門花崗岩鳥居を建立。寛政九年(1797)上屋改築、弘化三年(1846)十一月拝殿を延岡内藤能登守政義が寄進し、明治四年(1871)神殿表屋改築を内藤備後守政挙が寄進し、昭和四年現神殿の改築を以て今日に至る。天正の兵乱により社殿が損壊し、宝物を失った。更にその後の文書類も明治十年の役に福瀬神社地周辺が薩軍の屯所だったため兵火の中心になり散逸してしまった。
     明治初年頃まで「白鳥大明神」と称したが、明治四年十一月他の神社を合祀して現在の社名に改め、明治四十年二月、神饌幣帛料供進社に指定された。

    電話番号
    郵便番号
    883-0101
    住所
    日向市東郷町山陰乙2014番地
  • 坪谷神社(つぼやじんじゃ)

    坪谷神社(つぼやじんじゃ)

    本社は、天正6年(1578)豊後臼杵の城主大友宗麟の兵火にあい一切を焼失、一時廃社となるも、後に社掌の祖先である日高蔵人丞が再興した。古来村民天満宮を尊崇し、天満大自在天神社天満宮と称したが、明治初年坪谷神社と改称した。
    元禄10年(1697)、享保9年(1724)4月、寛保2年(1742)12月再興の棟札がある。

    電話番号
    (0982)69-7868
    郵便番号
    883-0211
    住所
    日向市東郷町坪谷955番地
  • 須賀神社(すがじんじゃ)

    須賀神社(すがじんじゃ)

    当社は古く「キヲン社」「祇園牛頭天」と称し、明治4年辛未に現称に改める。棟札として安永甲午霜月、天保9戊戌年卯月、嘉永元甲年9月等がある。また古老によると、「弘治年間(1555~1558)この地方は疫病盛んに起こり人民の死亡する者多く、村人等ははなはだ恐れ憂い嘆いて、この災難を免れるには神の御神護をこうむるの他はないとして、『健く雄々しくましまして、神威高き素盞嗚神を斎き祭りて、疫病を打払い退け給い、鬼魅を駆逐し給わることを乞い祈り奉る』と、御社を建て鎮め奉りなり」と言い伝えている。

    電話番号
    (0982)69-7868
    郵便番号
    883-0213
    住所
    日向市東郷町下三ケ391番地1・391番地2・391番地3
  • 八重原神社(はえばるじんじゃ)

    八重原神社(はえばるじんじゃ)

    当社はもと若宮大明神と称した。宝永年間に炎上し、旧記等を焼失したため由緒を明らかにすることができないが、天正の頃社殿造営の棟札があることから、それ以前の創立を思われる。
     明治四年十一月、天神社(字八重原に鎮座祭神、菅原道真公)を合祀して、現在の名称八重原神社に改めた。
     当社の秋祭りには、天正の頃より「御日持ち」行事が催されていたと伝える。戦前は三日三晩不眠不休で行われていた。現在はやや縮小されたが今なお行われ、近郷近在からの参拝者も多い。終夜参籠して日の出を待って退散するのを例としている。また社殿より300メートル奥に享保十五年の刻銘を持つ大日如来の石像が祀られており、地区では「水神さま」と称する。本社の奥の院に位置づけられ、祭礼は旧九月十三日であるが、その前夜祭には神楽を奉納し豊穣を感謝し、参拝者は岩聞の清水を口に含んで五体を浄め、健康長寿を祈願する。

    電話番号
    (0982)69-3435
    郵便番号
    883-0108
    住所
    日向市東郷町八重原迫野内622・623番地
  • 仲瀬神社(なかせじんじゃ)

    仲瀬神社(なかせじんじゃ)

    当社の創建は、天正14年(1586)7月6日(「日向案内記」)、7月7日(「日向地誌」)そして天正18年(1590)11月7日(「宮崎県史蹟調査」)と諸説あるが、天正年間であることは間違いなさそうである。本(元)宮大明神とも称し、明治4年11月現在の社名に改称した。
    当社には次のような言い伝えがある。『日向の伝説』によると、天文・弘治年間(1532~57)富高の日知屋に、その城主中城某の管領にかかる塩釜があり、日知屋の住民は多く塩を焼いて煙を立てており坪谷・山陰・田代・塩見・岩脇の人々は何れも塩をここに仰いでいた。しかし、永禄年中(1558~69)塩が釜に結晶せず大いに困ることとなった。「これは神の祟りであろう」と日知屋の人々は考え、多くの山伏を頼んで祈祷して貰ったが、少しもその験がない。そこで、野ノ先の住民で野々崎丹後という者を招いて祈祷させたところ、今度はその効があって塩を製することが出来た。そこで製塩に従う者は大いに喜び丹後に対して沢山のお礼をした。先に祈祷した山伏達は彼等の力の足りないのを棚に上げて丹後を嫉み、遂に丹後を殺そうと謀った。丹後はこれを聞いて逃れ、塩見・小野田を経て野ノ崎に入り、或る婆さんの茶屋に入って匿れようとした。婆さんは「この家は狭いからだめです。あの木の洞に隠れなさい。」といって大木を指し数えたところ、彼はすぐさま、その木の洞にひそんだ。やがて山伏等が追いかけて来てそして婆さんに尋ねた。婆さんは知らないと言った。山伏達はどうしてもこのあたりに隠れたのだといって捜しまわり、夜になっても去ろうとしなかった。丹後は鶏を愛育して身から離さなかった。或は彼の祈祷の用にしたのでもあろうかこの時にも彼は鶏を携えていた。夜が更けそして暁が来た。畜生の悲しさ鶏は主人の危急を知らず洞中で羽ばたいて鳴いた。山伏達はあそこで鶏が鳴くのが怪しいといいつつ、遂に丹後の隠れている洞を捜しあて、丹後を斬り殺し、その上その家族までも殺したという。野ノ崎の住民達は丹後の死を憐み、その霊を慰めようとし、天正十四年七月七日社を建て、大己貴命を主神とし彼の霊を併せ祀り、本宮大明神と崇めた。彼は祈祷者のようだから、けだし大己貴命は彼の信仰していた神であろう。村社仲瀬神社、その祭神は表向きは大己貴命であるが、実は野々崎丹後をも祀るものだろうと、祭神由来を記している。

    電話番号
    (0982)69-7868
    郵便番号
    883-0104
    住所
    日向市東郷町山陰戊594番地4・594番地5
  • 羽坂神社(はさかじんじゃ)

    羽坂神社(はさかじんじゃ)

    東郷町中心街の真上にある標高405メートルの冠岳北頂にあり、旧称冠岳第権現または冠岳神社という。
     平安時代小野田対岸の冠嶽天狗岩の元に小祠があり、修検場として崇められていたが、文明年間に至り冠嶽中腹の台地に社殿が造営され、「冠嶽第権現」と称されて、山陰村と称されて、山陰村をはじめ近隣一帯の崇敬を受けた。寛永十六年(1639)社殿改築の棟札一枚を有する。『日向地誌』によれば、御祭神は前記二柱のほかに事解男命も記されている。
     明治四年他の神社を合祀し羽坂神社と改称した。昭和六年現在地へ遷座、冠嶽一帯の神域は冠嶽は羽坂神社保管林となった。戦後、神社に対する保護がなくなり、保管林は国有林に没収されたが、氏子一同の願により旧社殿周辺5ヘクタールを無償贈与された。
     当社には、本県の在銘鐘としては最古の梵鐘があって、歴史の古さを伝えており、次のような銘がある。
    「奉施入日州 新納院山宅 保冠嶽三所第権現御宝前 右之趣者心信之檀 那無病無脳息災延命家内安穏子孫繁盛富貴自在心中所求皆令満足如意之故也以御祈念如欺
    願主 天氏中俣大炊左衛門慰重昌敬白 天文十八年己酉七月吉辰日
    諸行無常 是生滅法 生滅々己 寂滅為楽」
    と記されており、比較的小型の鋳銅製で、乳は茸状で撞座の位置が少々高く古様式を示している。米良氏の一族と思われる天氏重昌が祈願成就の礼として施入したことがわかる。この梵鐘は羽坂区硯野にあり、本社祭典の日は、梵鐘のある所でも古来より神楽を奏するを例としている。

    電話番号
    (0982)69-3435
    郵便番号
    883-0103
    住所
    宮崎県日向市東郷町山陰丁1番地・2番地
  • 山陰神社(やまげじんじゃ)

    山陰神社(やまげじんじゃ)

    当社は、天正六年(1578)大友宗麟の乱入による兵乱のため、神社に関する書類の多くを紛失した。古くは利国大明神を称したが、明治四年若宮神社他を合祀して、山陰神社と改称し、明治四十年二月、神饌幣帛料供進社に指定された。
     古老の伝えるところによると、当社の創建は詳かではないが、天平勝宝十年(758)百済王敗戦し朝鮮より逃れ給い、東臼杵郡南郷村神門への途次、山陰神社へ休憩のために立ち寄った。その日非常な寒気で、笠の紐をとくにも手がこごえてかなわず、山陰神社の神官が笠の紐をといたと伝える。最近まで比木神社が神紋への御神幸の際、当社に立寄り笠を取る神事があった。この事よりも山陰神社が古い神社であることがわかる。また、当社には神門神社祭神貞嘉王の将来品と伝える坩一個が伝わっている。
     代々延岡藩主の崇敬が厚く、社殿の改築及び修理が度々なされ、同藩主有馬左ヱ門佐高よりは、五石の御供料の寄進があった。当社の棟札によれば、天文七年(1538)に米良宮内少輔天氏弘吉により宝殿が造立され、その後、元亀二年(1571)慶長十七年(1612)元和十年(1624)寛文七年(1667)享保二年(1717)貞享五年(1688)に社殿の造営再興が行われている。

    電話番号
    (0982)69-3435
    郵便番号
    883-0102
    住所
    日向市東郷町山陰丙966番地
  • 迫之内神社(さこのうちじんじゃ)

    迫之内神社(さこのうちじんじゃ)

    当社創建その他の由緒詳にせず、旧若宮大明神と称した。明治四年十一月他の神社を合祀して、現在の社名に改めた。合祀社として八坂神社(祭神・須佐男命)若宮神社(祭神・大己貴命)がある。
    嘉永八年(1854)黒木与作氏唐獅像二本を寄進せり。
    安政二年(1856)神社石段を築く。
    昭和二十一年に地内の若宮神社の神殿を移転して、同年五月十四日合祀祭を行い現在に至る。
    町誌並びに門川町三ヶ瀬藤田丑弥氏宅に伝わる古文書によると、古くより住民の崇敬厚く中にも天文年間には崇敬者非常に多く霊験を蒙る者多かった。
    伝えるところによると、永禄年間三ヶ瀬に何処よりともなく上人(僧)が来て山中(三股)大明神(現在門川高校作業宿舎付近)に住み、天照大神を崇敬すること厚く、従って御恵を受ける事が多かったので、神官の嫉を受け種々問答したが、かねて尊崇する大神の御恵によって打ち勝ったので、神官は直ちに帰ったから上人は酒を持って行き神官に贈ったけれども受けなかったので、遺憾に思い虫にもなれと唱えて酒を谷川に流したところが、三ヶ瀬地方の作物に虫が生じたので村人達は上人に頼んで大神に除虫の祈願をなしたところ、虫が去って豊作となったという。
    上人は元亀元年(1570)織田信長時代、迫野内に移住し、天正二年(1574)九月本社を再興した。慶長十年(1605)十月、上人は社殿内に石の碑を建立し大道様と称した。
    祭礼は旧暦の二月十五日と九月十五日の年二回行われ、参詣者も町内はもとより三ヶ瀬方面、都農町方面からも非常に多かった。秋の祭礼には神楽と臼太鼓踊が奉納される。

    電話番号
    (0982)69-3435
    郵便番号
    883-0107
    住所
    日向市東郷町山陰庚2230番地
  • 愛宕神社(あたごじんじゃ)日向市

    愛宕神社(あたごじんじゃ)日向市

    明治三十五年五月二十三日第四二五七号の宮崎新報掲載の当社に関する記事に、「観音寺の東に鎮座する村社なり。火産霊命・伊弉冉尊二柱を祭る。弘安四年辛丑七月宇田津兵庫正義の勧請せるものにして、異賊摧伏・火災守護の祈願をなせりとの旧記あり。今の社掌は正義より二十二代の末裔なりと云へり」とある。
    いうまでもなく、火は古くより神聖視され記紀には迦遇突知神、或は火産霊神として神名があらわれ、一般に「愛宕神社」と称せられているが、京都の愛宕神社(右京区嵯峨愛宕町鎮座)が本社とされている。京都の西北にそびゆる愛宕山上にあって古くから王城の鎮護として名高い。当社もこれを勧請したものと考えられる。
    平安時代、神道と真言・天台密教の融合された神仏習合期には修験道が盛んで、境内に五重塔を配し崇敬された。
    鎌倉時代初期、九州山地に逃れた平家一門を追討するため那須与一・那須大八・工藤祐経等源一門が幡浦に入港した。その折に戦勝と航海の安全そして鎮火を祈念し、火の神を奉斎した。また社殿も新しく建立されたとされる。
    尚、幡浦の地名は源氏一門入港の際、幾隻もの船が幡を掲げていたので幡浦と名付けられたとされている。
    境内末社に荒神社があり、火牟須比神・澳津比古神・澳津比売神を祀ってある。神倭磐余彦命日向国高千穂宮をご出発東征の砌り、この島に鉾を建てられ、鉾島の鉾神様と唱えて奉祀されたといわれる。後の人、鉾島を細島と訛り地名になったといわれている。

    電話番号
    郵便番号
    883-0062
    住所
    日向市大字日知屋5500-乙
  • 菅原神社(すがわらじんじゃ)日向市美々津

    菅原神社(すがわらじんじゃ)日向市美々津

    天正六年(1578)豊後国の大友宗麟は日向国に来たり、島津氏と美々津川において合戦の際、伝来の宝物・古器物。古文書等一切烏有に帰したため、古来の由緒を知ることはできない。天正六年焼失したのち、同十一年十一月社殿造立したと伝える。
    なお、保存してある棟札によれば、享保十三年(1728)霜月十五日、天明六年(1786)霜月十五日、文化三年(1806)二月四日、天保十年(1839)霜月十六日等とあり、それぞれ改築の事があったと想像される。明治四年七月村社に列せられた。

    電話番号
    (0982)58-1638
    郵便番号
    889-1111
    住所
    日向市美々津町590番地
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