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宮崎県の神社

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  • 速川神社(はやかわじんじゃ)

    速川神社(はやかわじんじゃ)

    天照大御神(アマテラスオホミカミ)の命を受け新しい土地を求めて南下された天孫、邇邇芸命(ニニギノミコト)は、お供の1人である瀬織津姫を速川の瀬で急流に足を取られ亡くされました。邇邇芸命は深く悲しまれこの地に小さな祠を建立して、御霊を慰めたことに始まるという伝説が残されています。
    当社の創建については詳らかではないが、速川の瀬の左岸に祭祀され瀬織津比咩命を主祭神として祓戸4柱大神を斎奉る神社であり、1764年生まれで郷土史跡研究家の大家「児玉實萬氏」の神代都絵図に描かれています。大正3年内務省が選定し伊勢の大神宮を初めとして日本全国の神宮また神社において奏上致しております中臣の大祓詞よし引用しますと、「速川の瀬に座す瀬織津比咩命という神」と書かれて有り、既に奈良時代以前より祭祀されていたものと思われ霊験灼か成る事は他に無く、その起因の古きは推し量ることができるかと思います。明治4年に発行された「県令郷社定則」に基づいて、明治39年に児湯郡上穂北村鎮座「若宮神社」現在の西都市大字南方島内村鎮座「南方神社」に遷宮され境内社として一隅に祭祀されておりましたが、大正14年に現在の所に正遷宮し昭和46年4月に宗教法人速川神社となりました。
    神社の周辺には昔から、男滝・女滝・蛇滝等と称する滝が7滝ありと語り継がれ、その内の蛇滝が今の龍神の滝(本殿横にある滝)にあたると言われております。現在も参拝者が「生卵1包(2個)」を供えて祈願する習慣は、この7滝に捧げる龍神信仰から発生したものとも思われます。

    参拝のしかた
    卵(玉子)一包(2個)とローソク2本をお供えとして持ち、手水舎にて手を洗い口をすすぎ、拝殿へ上がり、ローソクに火を点け卵の包みを解きお供えしたのちに二礼二拍手一礼をもって参拝します。
    ※ローソクの意
    お灯明のことは顔を照らす意です。
    ※玉子の意
    卵(玉子)は主祭神にお供えしている神が蛇体であり、この神にお供えしてお願いをする意です。

    電話番号
    (0983)42-0114
    郵便番号
    881-0027
    住所
    西都市大字南方字鳥ノ巣183番地2
  • 高屋神社(たかやじんじゃ)西都市

    高屋神社(たかやじんじゃ)西都市

    当社は別称山王社とも言い、ご祭神は大名牟遅命・景行天皇を奉祀する。十二代景行天皇、纒向日代(まきむくひしろ)の御宇十二年七月熊襲が叛乱した。よって八月十五日皇居御発輦遊ばされ、筑紫ご親征に向かわせ豊前に入り、鼻垂耳垂諸譒兇賊・土蜘蛛を討ち、日向国子湯県に到り、此の地に御駐輦された。
    同十二年丁亥秋十一月高屋行宮(現黒貫寺境内)を興し、天皇は宮殿の東日陽山景勝の地に宮柱太敷立て、神殿を造り、天神地祇八神及び烈聖の皇霊を鎮め奉り、皇郡克勝をご親祭された。天皇は、黒木造り(黒貫の地名の語源という)の御所に七年間ご辛苦の戦の末、遂に十三年夏五月悉く平定され、熊本を経て大和へご還幸なされたのである。
    その後二十七年八月再び熊襲が叛き、天皇は御子小碓命(日本武命)に命じてこれを討たせられた。命はただちに日向へ渡り景行天皇の御所たりし高屋行宮に幸し、高屋宮に皇軍の克勝を御祈願の後熊襲を討ち平げられたという。
    後世、里人等景行天皇のご偉業と聖徳を偲び奉り、そのご神霊を高屋宮に奉祀し、村の鎮守神として里人の崇敬篤い神社である。
    古来祭典は毎月行い、年間75度の大小祭有りと言う。
    一月正月用の餅は「餅田迫」(字小路)祝松は「松ヶ迫」(字春田)より納める。
    二月春の彼岸(旧)には「彼岸田」(字境田)より納米。
    三月節句米は「三月田」(字山下)より納米。
    五月節句米は「五月田」(字四反田)祝菖蒲は「菖武迫」(字吉の丸)より納める。
    六月大祓は「払谷」(字払谷)にて行う。
    七月七日七夕祭は「七夕田」(字七夕田)より納米。
    八月彼岸は「彼岸田」(字境田)より納米。
    九月九日は太々神楽(大祭)にて最大の祭典である。その儀前夜、黒貫寺境内の御初家山(景行天皇の仮御所趾)にご神霊を移し、明九日、三十三番の太々神楽を奉納、終りてご還幸する。この制度は明治七年まで行われ、その費用準備は総て黒貫寺より行いしという。
    十一月星祭は「霜月田」(字畑間)より納米。
    十二月大祓は「払谷」にて行う。
    各祭典に用いる「ヒトギ」は「ひとぎ田」(字四反田)より「御供米」は「九像田」(字払田)より奉納、その籾種は「米納」(字四反田)より納めしものである。
    なお例大祭は旧九月九日として現在に至る。
    勅願の霊顕により、御剣を都万神社に献納され、同社の宝庫に蔵する旨、『延喜式内都萬神社案内記』に記されている。

    電話番号
    (0983)44-3071
    郵便番号
    881-0106
    住所
    西都市大字岩爪2600番地
  • 調殿神社(つきどのじんじゃ)

    調殿神社(つきどのじんじゃ)

    一ツ瀬川下流右岸に位置し、地名の由来は神を祀る斎殿の意から出ているといい、また一説には中世に宇佐領であったことから、調殿とは宇佐宮の貢物を納める倉庫の意であるともいう。
    当社は、往古の創立と伝えるが、社殿炎上のため諸記録焼失し、創立年外ははっきりしない。ただし当時の焼灰塚が境内にある。
    社伝によると「延喜五年(905)宣下により神楽を奏す」とあり、承平四年(934)以後、長元五年(1032)・永保三年(1083)・保延三年(1137)・養和元年(1181)等に社殿の再興があったと伝える。旧称を調殿八幡宮といい、「斎殿神社」の記名もみられ、天児屋根命が神事をつかさどる所、すなわち斎殿なりともいう。なお、この地の東方・茶臼原台地の一部児屋根原には、天児屋根命の山陵とする前方後円墳がある。この古墳を村人は「児屋根塚」と呼んでいる。
    文化十年(1813)斎殿神社と改め、明治四年調殿神社と改称し、現在に至る。
    当社は、主祭神のほかに相殿神として、神魂日命、高魂日命、生魂日命、足魂日命、玉魂日命、大宮売命、御食津命、事代主命を祀り、境内神社として、稲荷神社(祭神・宇賀魂神)、五穀神社(祭神・保食神)、歳神社(祭神・若年神)がある。

    電話番号
    (0983)42-3816
    郵便番号
    881-0023
    住所
    西都市大字調殿328番地
  • 南方神社(みなみかたじんじゃ)西都市

    南方神社(みなみかたじんじゃ)西都市

    一ツ瀬川下流右岸島内に鎮座する。地内杉安から上流の一ツ瀬川を杉安峡といい、川の規模や山の高さ、深さが京都の嵐山に似ることから、「日向の嵐山」とよばれ、景勝地として知られる。
    当社の創立年代は詳らかではないが、旧称若宮大明神といい、棟札最古のものに弘安九年(1286)九月のものがあり、その由来の古いことが推察される。
    特に旧記の存するもはないが、わずかに口碑の残っているものによれば、伊東氏は本社を厚く尊信して、三宅十八社穂北十八社の第一社とし、供田を寄進している。弘安四年(1281)蒙古襲来の際、上下ひとしく国運憂慮して皇国の勝運を神に祈願していた。時に当社は神験の顕著なることより、村人神威を感じ入り、弘安九年(1286)丙戌九月社殿を再建し、その神徳を顕揚させたと伝えている。所蔵の棟札によればその後も度々造営再興が行われ、文禄二年(1593)十二月には高橋九郎殿元種により、享保六年(1721)三月には領主牧野氏より再興され、歴代領主領民の厚く尊崇した社であった。明治四年南方神社と改称し、同四十年二月神饌幣帛料供進社に指定された。
    当社は明治初年まで上穂北大字南方の良須山に鎮座し、南方穂北二村の産土神として村民の尊崇厚く、祭祀は近郷に例を見ないほど賑やかであった。しかし一ツ瀬川を挟んでいるため村人参拝にも不便であり、また出水等で祭にも差しつかえがあるため、明治七年氏子と合意の上現在地に鎮座したものである。
    神殿には古来より奉安する神面がある。これは神殿造営にあたり、白髪童顔の老翁何処からか来て神面を刻む事数日余。神面は出来あがり、これを神殿に献じて再びその姿を顕さなかった。人々は伝えて彼を手名槌命足名槌命と言い、また「キンナラ様」とも称する。旧六月十五日祭事を行い、官人この面を戴き舞を奉仕する。この時振舞が烈しければその年暴風雨があると言い、また緩和であれば風雨順調にして五穀豊穣であると言い伝えられる。

    電話番号
    (0983)42-3934
    郵便番号
    881-0027
    住所
    西都市大字南方3246番地
  • 童子丸神社(どうじまるじんじゃ)

    童子丸神社(どうじまるじんじゃ)

    天孫天津彦穂瓊々杵命笠狭崎に行幸した際、大山祇命の二女木花咲耶媛命を皇妃と定め三皇子を生んだ。本村は三皇子をご生育の地であるところから、古くから童子丸と言うと語り伝える。神殿より南六百メートルの所にご降誕の遺跡がある。無戸室(うつむろ)といい、木花咲耶媛がお産をされたとき、身の証しをたてるため、四方を塗りふさいだ戸のない室で、しかも部屋に火を放って三皇子をお産みになったという。そのかたわらに児湯の池があり、三皇子が産湯を使った池だといわれ、日本最初の産婆の神、袷縞様、青島様が祭られている。景行天皇のころから当地を子湯の県といい、郡名もこの地より起こったといい伝える。
    当社は三皇子を祀って三ノ宮とし、白鳳二辛亥年、大己貴命・少彦名命二柱の神を相殿に合祀した。棟札によれば、寛永四年(1627)九月、当地守護藤原朝臣弘純により再興され、その後、寛永七年(1667)から嘉永六年(1853)までの間に七度再興されている。明治初年までは山王権現と称したが、明治四年、童子丸神社に改め現在に至る。

    電話番号
    (0983)43-3063
    郵便番号
    881-0025
    住所
    西都市大字童子丸583番地
  • 穂北神社(ほきたじんじゃ)

    穂北神社(ほきたじんじゃ)

    一ツ瀬川中流北涯に鎮座し、地内には千畑古墳(国史跡)茶臼原古墳群(国史跡)上穂北古墳(県史跡)などが散在する。
    創立年月日は不詳であるが、古老の伝えるところによれば次のごとくである。
    太古天津彦瓊瓊岐命笠狭の碕にご降臨された際、大山祇神の二女を妃とし長女である磐長姫命を寵愛しなかった。そのため姫命は笠狭の地を隔たること二十余丁、五十鈴川の川上に去り当地に鎮座された。この神殿には古来より神像と、姫命の御形見の神鏡が奉安されている。
    当地を穂北と言うのは、木花開耶姫命が姉磐長姫命に稲穂を五十鈴川(現一ツ瀬川)に流して送ったところ、北岸に着いたことによるという。付近に姫命の山陵として五基の円墳があり、その最大なるものを磐長姫の山陵と伝えている。また一説には、西都原の男狭穂、女狭穂両古墳の北にあるからだともいう。
    中世土持氏の領地であったが、建久年間伊東氏により亡ぼされてより伊東氏が領有するところとなり、本社を篤く尊信し、供田を寄進して奉祭した。天正五年(1577)伊東氏が没落し、代わって延岡藩主高橋氏の領有となり、更に慶長五年(1600)関ヶ原の乱により高橋氏敗れ、有馬直純延岡藩主となり、領有したが、供田の寄進は従来通り行われた。同年火災にあい御形見の神鏡・宝物・古書等皆焼失し、わずかに姫命の神像半体を存するのみである。天保六年(1835)三月六日再興され、その後天保十二年八月十五日、明治七年甲戌五月十六日、明治十二年己卯十月三十日と造営が行われた。明治維新の際村社穂北神社となり、同四十年二月、神饌幣帛料供進社に指定された。
    明治四十三年五月、地内鎮座の鹿島神社、尾崎神社、二柱神社、北嶽神社、大年神社、香取神社、諏訪神社、山の神神社を合祀した。境内神社として五鈴神社がある。

    電話番号
    (0983)42-3934
    郵便番号
    881-0026
    住所
    西都市大字穂北935番地
  • 八重稲荷神社(はえいなりじんじゃ)

    八重稲荷神社(はえいなりじんじゃ)

    本神社の氏子たる浜砂氏は藤原氏の末裔にして、寿永年間(1182~84)平家に属し源氏と戦いその敗北となるや逃れ、日向国米良山中の銀鏡に入り難をさけたが、浜砂図書という者になって、同族を率い徳川時代の初期銀鏡より約二里隔てた八重地区に移り永住の地と定めた。ここに同氏族が氏神と仰ぐ鹿倉社(天児屋根命)稲荷社及び山宮社(大山祇命)の三神社を、現今の八重村401番乙-二に創建し尊崇した。浜砂全氏族を始め中武氏等三十余戸挙げて祭祀を怠らず、崇敬の誠を尽くしてきた。明治初年この三神社を合祀して社殿を増改築し、その維持を鞏固ならしめ、報本反始の誠意を捧げて今日に至っている。
    特に十一月二十八日の例祭は氏子崇敬者が年頭より期待する祭日である。当時山間慰安の途なき村人一同は、この日をもって最も欣悦を尽し、神を祭り親和する日とし、ご神幸を待って徹夜三十三番の大々神楽奉納、翌朝に至りご還幸となるを例とする。
    この間、他町村より崇敬者もまた踵を接し、寒村八重も賑うを恒とする事往時の習わしである。

    電話番号
    (0983)42-4680
    郵便番号
    881-1233
    住所
    西都市大字八重401番乙ノ2
  • 尾八重神社(おはえじんじゃ)

    尾八重神社(おはえじんじゃ)

    九州山地中央部一ツ瀬川の支流尾八重川流域の山間地に位置する。もと雄八重と称したが米良氏が領主となって尾八重となったという。
    本社は永正八年(1511)十一月二十三日、領主黒木吉英が鎮守神社の名をもって建立した。以来尾八重村の主たる神社にして保存維持方法は黒木氏に引きつづき、菊池氏が篤く崇敬して領主専ら担当した。維新の際、銀鏡神社に合祀されたが祭典は、村觸役(むらふれやく)を決めて厳修されてきた。村民の請願により明治十三年復旧が承認され、同十二月尾八重神社と改称し、村社に列せられた。当社には、十二月二十五日(現在は11月第4土日)夕刻から二十六日朝まで、県無形民俗文化財に指定された尾八重神楽が、現在は尾八重小学校跡の運動場で奉納される。神楽の起源は、保安二年(1121)尾八重の住人で都万神社の社人壱岐幸延が当地に広めたと伝える。番付は三十三番からなり、特に真夜中に舞われる四人神崇は、東西南北の四方神を鎮める舞で、太刀を打ち回して悪魔を払い里人の無事を祈る。
    神楽がすべて終了すると、祭殿から少し南下した谷間で、その年の獲物の獲れる方向を占う「シシバ祭」が行われる。

    電話番号
    (0983)43-2079
    郵便番号
    881-1121
    住所
    西都市大字尾八重859番地ロ号
  • 宿神社(しゅくじんじゃ)

    宿神社(しゅくじんじゃ)

    長享三年三月の創建と伝え、往古は官権現と称した。ご神体は三十八代天智天皇の御代、藤原鎌足公が奈良県猿沢の池に沈んでいた長さ三尺の楠を発見し、その楠から製作した能面の一つである。のち、この能面が鎌足公より菊池家祖則隆公に伝わり、二十五代の菊池岩見守重次公が米良入山のとき、氏神としてこの能面を崇敬するようになったという。その後、菊池重由が尾八重の地頭となり、能面を一体は菊池領主、一体は銀鏡氏部兼続、一体は尾八重地頭へ割賦した。その後菊池丹波なる者崇敬し、打越村に宿神社の称号を得、地頭米良勘解由が神殿を造営し、菊池氏代々の崇敬社とした。明治四十三年十月、無格社宿神社として許可され、保存維持の法確定し現今に及ぶものとなる。
    武士の信仰による武具の寄進もあり、現在筑紫箙(えびら)と呼ばれる矢を入れて背に負う武具が残っているが、この箙は南北朝期から室町期の武具の好資料とされている。

    電話番号
    (0983)43-2079
    郵便番号
    881-1121
    住所
    西都市大字尾八重148番地の3
  • 銀鏡神社(しろみじんじゃ)

    銀鏡神社(しろみじんじゃ)

    九州山地中央部の山間地、一ツ瀬川支流の登内川と銀鏡川の合流域に位置し、翌等に地蔵岳、オサレ山、北西に雪降山、南東に竜房山がそびえる。
    銀鏡神社は、岩長姫・大山祇命・懐良親王を合祀した神社で、ご神体は岩長姫尊の銀の鏡、懐良親王の割符の鏡である。
    祭神・懐良親王は征西将軍で、後醍醐天皇より割符のため譲られたみ鏡が、菊池家に伝わっていたのを、米良領主菊池氏の元祖則隆公より二十五代石見守米良重続公の代に至り、長享三年(1489)3月16日銀鏡神社を創立した際、岩長姫尊・大山祇命と合祀した。
    祭神・岩長姫尊のご神体銀の鏡についての由来は次のごとくである。天津日高彦火々瓊々杵尊・日向國阿田の長屋笠狭岬に天降りし時、大山祇尊の娘二神がいた。姉を岩長姫尊、妹を木花佐久夜姫尊と言い、瓊々杵二神を納めたが、姉岩長姫尊はその容貌醜悪であったので、尊は妹木花佐久夜姫尊のみを愛した。それを姉神痛く嘆き悲しみ、父大山祇尊より譲ってもらった鏡を取り出し、自分の姿を写してみると、その姿醜悪にしてあたかも龍のごとく見えた。その鏡を乾の方に放ち捨てると、その鏡は当神社東方の龍房山の絶頂の大木にかかった。それでこの山を鏡山という。尊はその鏡の留る所を知ろうと一ツ瀬川を遡り、右の支流に入りその身を隠したという。
    龍房山に留った鏡は光り輝き、西方の村里を照らし夜中も昼のようだったので、この地を白見村と言ったが、その鏡が銀の鏡だったので銀鏡村と言いかえられたという。
    その後この地の住人源氏米良兼続という人山に登り鏡を取り下り敬守していたが、後に領主石見守米良重続公に奉納し、前記割符の御鏡と合祀され銀鏡神社と照合し尊崇祭祀してきた。王政御一新の折、領主より正一位・西之宮大神と称号を賜り、毎年十一月十四日領主を始め氏子中により祭事を滞りなく行ってきた。
    明治二年村社に列せられ、銀鏡神社として現在に至る。割符の御鏡は、方格四乳葉文鏡といわれる白銅鏡で、紀元前一世紀ごろ鋳出された漢式仿製鏡とされ、鋳上がりもよく文様も整っていることから、昭和四十六年県の有形文化財に指定された。例祭の十四・十五日に奉納される銀鏡神楽三十三番は米良神楽の一つで国の重要無形民俗文化財に指定されている。

    電話番号
    (0983)46-2123
    郵便番号
    881-1232
    住所
    西都市大字銀鏡492番地
  • 芳野神社(よしのじんじゃ)

    芳野神社(よしのじんじゃ)

    当社は、はじめ妙見・妙現宮と称した。三十三代推古天皇の御代周防国氷上郡に崇め奉り氷上妙見と称する。後、吉敷郡にご遷座、元享年中(1321~24)、九州肥後国八代郡にご遷座、白木妙見と称する。西征将軍懐良親王の崇敬深く、そのご一門と共に日向国児湯郡米良村山奥、多出河原にご遷座有りしと伝える。次に、米良村本山坂元の諸所にご遷座。次に越野尾に腰をかけ給い、三納郷山奥八方塚を経て次に、同郷芳野山(現在の社地)にご鎮座になり、芳野妙見と崇めまつり、三納郷宗廟鎮守となる。永正年中(1504~21)以来、旧藩主島津家は初代より神禄十石を寄進し、黒木肥前を神主に信補し、崇敬最も深く、陰暦九月二十八日・二十九日、例祭を行ってきた。明治維新の際、芳野神社と改称し、同四年五月二十日、村社に列格。同四年六月、神饌幣帛料供進指定神社となった。三納一郷の産土神である。

    電話番号
    (0983)45-1250
    郵便番号
    881-0101
    住所
    西都市大字三納9442番地
  • 平郡神社(へごおりじんじゃ)

    平郡神社(へごおりじんじゃ)

    三納川下流右岸から三財川下流左岸にかえて位置する。地名の由来は、平郡氏の居所であったことによるという。地内には県史跡に指定された三納古墳がある。
    創建は詳らかではないが、古伝によれば第七十一代後三条天皇の延久三年(1115)十月二十九日近江国滋賀郡日吉大明神を勧請し、鎮座すると伝える。永禄六年(1563)の棟札によれば伊東義祐ならびに伊東義益、武運長久息災延命、また、当代官福永宮松丸、身心堅固、延命長寿とある。伊東氏の時代も崇敬篤く、島津氏は神領十石寄進、或は銀鏡を奉納している。その他は寛文享保の記籍にして、近くは嘉永、安政、明治初年の棟札等数十葉を蔵し、皆「山王宮」「日吉山王」との称が記され、本社の旧称であることがわかる。
    明治維新の時、平郡神社と改称し、明治四年五月二十日村社に列格する。明治四十年六月十日幣帛料供進指定神社となる。平郡一円の郷土の産土神で、妊婦・山人等は特に崇敬の誠を尽くす。最近まで陰暦九月初九日を例祭日と定めていたが、近年陽暦十一月九日を例祭日とする。大正四年境内を拡張し石坂を築き、基本林を設け杉檜15000本を植栽し記念とする。

    電話番号
    (0983)44-5653
    郵便番号
    881-0102
    住所
    西都市大字平郡815番地
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