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宮崎県の神社

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  • 鎮守神社(ちんじゅじんじゃ)

    鎮守神社(ちんじゅじんじゃ)

    小丸川上流の山間地に位置し、西に空野山、オサレ山、地蔵岳がそびえる。地名の由来は、中央部に中野と呼ぶ地があり、山々に挟まれた河谷に立地することから中野股と称するようになり、中之又と書くようになったという。
    社伝によれば、肥後、豊後、日向の三国にまたがる祖母岳より大神氏朝臣都甲駿河守惟倍来り、日向国児湯郡都農新納院にしばらく住居した。その後都甲駿河守惟基其嫡左京進惟治中之又の地頭となり、その時に負い来る棟札を小宮を造り奉納した。本社は神武天皇外三社の神を祀り、永正元年(1504)7月21日の創建と伝える。五代自信心大檀那大神氏都甲朝臣米良久馬右門尉重堅が元禄四辛未(1691)年神殿を造営した。明治三十五年9月12日無格社となり現在に至る。

    電話番号
    (0982)69-8401
    郵便番号
    884-0105
    住所
    児湯郡木城町大字中之又121番地
  • 狭上稲荷神社(さえいなりじんじゃ)

    狭上稲荷神社(さえいなりじんじゃ)

    九州山地中央部の山間地、一ツ瀬川と板谷川の合流点に位置する。地内には二基の古墳があり、小川の古墳一基とともに西米良古墳として県史跡に指定されている。一基は菊池記念館の裏の山中にあり、一基は当社の南側に位置している。
    旧称狭上稲荷大明神と称し、創立年月日は不詳であるが、社蔵の由緒記によれば次のごとくである。
    皇御孫尊阿田之長屋にご臨座し、大山祇命の娘、姉の磐長比咩を畏れ給い、妹の木花咲哉比咩五十鈴川上川に去ってしまった。大山祇命は跡を慕いて狭上の深川に跡を垂れ給う。爰に御陵あり、しかし空国にして祭る者がなかった。世降りて当社御陵を知る人も稀になっていた。時に天正年中、山中堂栄、煮田之尾勝房・山佐礼左近・西世法師の四人兄弟狭上の東西南北に柴の庵を結んで露命を繋いでいた。西世法師の夢に白髪の老翁が現れ、我は是れ大山祇命なり、我陵を以て稲荷を祭り尊敬せば汝が子孫長久なる事疑う事なし、と言われた。西世法師山谷の狐魅我を犯すとしてそのままにしていた。また夢見があったので此の神を祭り尊敬すると日数を経ずして白狐稗粟大小豆を携えて来て西世法師に与えた。その後米良佐太夫の時に新たに社を建立した。その子孫の米良半右衛門と言う者が球磨表に越したので、その後中武氏神司となりここに居住した。
    この由緒によれば、創建は古く菊池氏の入所後、氏の弟米良佐太夫の再興に係り、その子孫によって代々護持されてきたものである。

    電話番号
    (0983)36-1202
    郵便番号
    881-1411
    住所
    児湯郡西米良村大字村所503番地
  • 八幡神社(はちまんじんじゃ)村所八幡神社

    八幡神社(はちまんじんじゃ)村所八幡神社

    正平十二年(1357)丁酉征西将軍懐良親王鎮座に下り、八代郡小野に薨ぜられた歳、一王子があった。爵松丸と称せられ、のち良宗親王と称した。以後争乱相つぎ賊威益々盛んであったので、米良石見守重為公(本姓菊池氏米良に潜居後天氏又は米良氏と称する)良宗親王を奉じて米良山に潜居した。その間に懐良親王のためにこの社を創建し、大王宮と号した。良宗親王を小大王と称し、重為六世の孫米良弥太郎重鑑公天正二年(1574)六月再建し、豊前宇佐八幡宮に請うて八幡社号を用いるようになった。明治四年六月社殿の西北、十五町隔てた投の瀬の北岸に鎮座の小大王社(祭神良宗親王)を遷して合祀し、また社殿の東側にあった御社森宮(米良重為公、米良重鑑公)を遷して合祀した。
    当社例祭に奉納される米良神楽は、文明三年(1469)天氏重続・重頼の発案で親王を祀る大王宮を建て、将軍が生前好んだ舞を奉納したのが始まりであると言われている。米良神楽の舞い振りは、奈良・平安の大陸文化の影響を受けて、優雅な舞で組み立てられ、支那舞・朝鮮舞が加わる。この神楽は銀鏡、中之又、尾八重、寒川など米良領内にくまなく広まり、今日まで伝わってきている。
    当社には注目すべき神面が数面所蔵されており、特に小癋見(こべしみ)と称される鬼面は、県下の能面のなかでも古面として注目され、昭和四十年県の有形文化財に指定された。檜材でつくられたこの面は引き締まった力強い象形で、悪魔を祓う力強い鬼面であるところから、神面として使われてきたのだろうとみられている。

    電話番号
    (0983)36-1870
    郵便番号
    881-1411
    住所
    児湯郡西米良村大字村所12番地
  • 兒原稲荷神社(こばるいなりじんじゃ)

    兒原稲荷神社(こばるいなりじんじゃ)

    一ツ瀬川と小川川との合流域に位置する。昭和三十八年一ツ瀬ダムが完成し、当地はダム湖の湖畔となった。
    当社は初めに木花咲耶姫命、彦火火出見命、大山祇命を奉斎した神社であったが、下って天正五年(1577)伊東家十代義祐は島津氏との戦に敗れ豊後に落ちるに際し、伊東家の守護神伊豆稲荷の祭祀を当神社社祠甲斐助左衛門重祐に依頼され、兵火の中より御神霊を壺中に収め持ち帰り、倉稲魂命、太田命、大宮姫命を合祀し、以後小春稲荷神社と称した。豊臣秀吉に仕えた義祐の子祐兵は、天正十五年(1587)九州の役に参戦し、島津勢が降ってからは飫肥の初代藩主となり、当神社の例大祭には豊後落ちの恩義を忘れず、飫肥名産の蜜柑を毎年名代をつかわし奉献したといわれる。江戸期には米良五社の一つとして領主米良氏の崇敬を受け、祭礼の際には領主の直参、代参があったという。棟札によると寛政二年(1790)十一月甲斐刑部によって再興されている。
    幕末、当社の祠官であった甲斐右膳大蔵父子は、尊皇運動の先頭に立ち、文久三年の討幕運動の失敗で、肥後人吉藩に捕らえられ、元治元年に父子相次いで獄死した。このため明治維新に際して社号を消滅させられたが、明治十五年現社名を称するようになった。社殿に至る石段右側の墓地内の甲斐右膳父子の墓は、昭和九年勤王家の墓として県史跡に指定された。
    特殊神事として、節分の折の「普通水稲作占い」、また例祭には神楽三十三番が夜を徹して奉納される。

    電話番号
    (0983)37-1225
    郵便番号
    881-1301
    住所
    児湯郡西米良村大字越野尾134番地1
  • 米良神社(めらじんじゃ)

    米良神社(めらじんじゃ)

    磐長姫は大山祇命の長女なり。妹を木花開耶姫と云えり。之に依りて磐長姫を姉之宮と稱せしを後人誤りて市之宮と稱せり。嘗て皇孫瓊々杵尊、木花開耶姫の容貌絶美なるを以て召て妃とせり。然る所姉磐長姫慙愧に絶えず家を去りて一ツ瀬川を傳へ上りて米良小川の地に潜み居りしが遂に命を御池の渕に投じて薨去せり。当時社内に神宝として白髪ありしが元禄16年申5月7日洪水起りて山嶽崩れ川水を塞げり。故に川水漲溢す。時に社宇に氾汚し漂いて川上に登ること数町水涸るるに就て社宇留りし地に拝殿を設く。即ち今の拝殿是なり。神殿は山嶺に再建す。此の水難罹りて神宝の毛髪悉く失す。

    電話番号
    (0983)37-1112
    郵便番号
    881-1302
    住所
    児湯郡西米良村大字小川988番地
  • 今町神社(いままちじんじゃ)

    今町神社(いままちじんじゃ)

    永禄(1560)の頃、秋の彼岸の中日に、13人の女子舟に乗って、草刈りに行ったところ、舟が転覆して、皆水に溺れて死にかけたが、当社の後方の岸に流れ着いて、女子供は命拾いをしたと言い伝えられている。このように神明のお加護を蒙ったので、今町村の人々等、神饌を奉り、祭典を行うことになったという。
    往古の社地は宇向江にあったが、文政(1822)の頃、今の処に移し奉ったといい伝えられている。

    電話番号
    (0983)33-3747
    郵便番号
    889-1406
    住所
    児湯郡新富町大字新田113番地
  • 伊倉神社(いくらじんじゃ)

    伊倉神社(いくらじんじゃ)

    当社の由緒は不詳であるが佐土原藩旧記『御神領高付』に「一壱石参斗 井倉権現領六月十五日 良寿院 十一月卯ノ日」とある。棟札として一枚「元和五年己未(1619)九月二十六日 島津右馬頭源朝臣忠興」とある。忠興は佐土原城に入った島津以久の末男だが、以久死後襲封した藩主である。また『宮崎県史蹟調査報告』には琵琶一張があり、和泉式部下向の際持ち来たものと伝える。

    電話番号
    (0985)72-0105
    郵便番号
    889-1405
    住所
    児湯郡新富町大字伊倉13番地
  • 山坊神社(やまのぼうじんじゃ)

    山坊神社(やまのぼうじんじゃ)

    棟札一枚あり「安永七年(1778)九月朔日、再興願主不明」とある。
    当社付近には、新田原古墳群の一つである山ノ坊古墳があり、獣文縁獣帯鏡や画文帯環状乳神獣鏡の舶戴鏡が出土している。

    電話番号
    (0985)72-0105
    郵便番号
    889-1406
    住所
    児湯郡新富町大字新田9383番地
  • 焼石神社(やけいしじんじゃ)

    焼石神社(やけいしじんじゃ)

    棟札一枚があり「寛文七年(1667)十一月二十四日再興」とある。

    電話番号
    (0985)72-0105
    郵便番号
    889-1406
    住所
    児湯郡新富町大字新田11719番地ノ2
  • 春日神社(かすがじんじゃ)新富町

    春日神社(かすがじんじゃ)新富町

    奈良市の春日大社のご分社として、鎌倉時代に、本部家第一代の、本部宮内左衛門定兵が創建したと伝えられる。のち、この地を領した都於郡城主伊東氏、その後の佐土原島津氏は供田三百石を献じ、氏神として篤い崇敬をした。
    古くは、春日大明神と称したが、明治以降は春日神社と改め、昭和二年村社に列せられた。
    また昭和五十年十月、社地を現在の処に移し、朱塗りの色鮮やかな春日造りの神殿が完成し、春日大社花山院宮司のご列席のもと、盛大に遷座奉祝大祭が執行された。
    昭和六十年十月十五日には、ご創建七七〇年、昭和ご遷座十年祭が催され、藤原氏の氏神として、また近郷近在の鎮守の神として、ご神威はますます高まっている。
    特殊神事として地元春日地区民による旧暦六月十四日の「だごおつや」、旧暦九月十四日の「にぎりめしおつや」がある。前者は氏子の各家より、団子を作り奉納し、のち直会において参列者全員子供に至るまで一個ずつ分け与えられる。後者は同様ににぎりめしを奉納するもので、両方とも夜を徹して行われる。小麦、米の豊作感謝の祭である。
    昭和五十九年より、春祭りには戦前は行われていた奉納剣道大会を復活し催している。(平成二十五年を以て中断)
    平成二十六年にはご創建八百年を記念して、本殿、拝殿の塗り替えと手水舎の新築工事が行われた。

    電話番号
    (0983)35-1601
    郵便番号
    889-1406
    住所
    児湯郡新富町大字新田13867番地
  • 川床神社(かわとこじんじゃ)

    川床神社(かわとこじんじゃ)

    棟札一枚あり「寛文二年(1662)十一月吉祥日再興」とある。

    電話番号
    (0985)72-0105
    郵便番号
    889-1406
    住所
    児湯郡新富町大字新田16643番地
  • 諏訪神社(すわじんじゃ)新富町

    諏訪神社(すわじんじゃ)新富町

    本社は天正年間(1573~1591)伊東島津の兵火にかかり、古文書ことごとく焼失したため創建年代等不詳である。口碑によれば景行天皇の熊襲征討の際字平山岡に勧請したと伝えるが、明治二十年再度の火災にて詳細不明である。

    電話番号
    (0985)72-0105
    郵便番号
    889-1406
    住所
    児湯郡新富町大字新田5461番地-2
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