Loading...

宮崎県の神社

神社検索
神社データ(神社名、住所、由緒等)から全検索します。
地域
地域一覧
  • 八幡神社(はちまんじんじゃ)川南町

    八幡神社(はちまんじんじゃ)川南町

    神社の創立は詳らかでないが、伝来の棟札に「寬文三年(1663)癸卯十一月吉日奉再興寺十六夫子八幡両社同前に調申候、秋月佐渡守大蔵朝臣種信公の御代当代官山田隼人佐藤重当庄屋河野伝左衛門道頼本願主河野九兵衛尉」と記載してあるので、寬文年間には建立されたものであろう。

    電話番号
    (0983)27-5379
    郵便番号
    889-1301
    住所
    児湯郡川南町大字川南6435番地
  • 金刀比羅神社(こんぴらじんじゃ)川南町

    金刀比羅神社(こんぴらじんじゃ)川南町

    古老の口碑によれば当社天明八年(1778)讃岐国三野郡新名村より松浦丈助という者が此地に来住の際、金刀比羅宮のご分霊を奉じ来り、松浦家の氏神として勧請したといい伝える。

    電話番号
    (0983)27-5379
    郵便番号
    889-1301
    住所
    宮崎県児湯郡川南町大字川南13277-イ
  • 愛宕神社(あたごじんじゃ)川南町

    愛宕神社(あたごじんじゃ)川南町

    当社の由緒は不詳であるが、山神社と称し大内村に鎮座、祭料五斗が祭毎に奉納されていた。明治四十二年六月愛宕神社を合祀し現社名に改称現在に至る。

    電話番号
    (0983)27-5379
    郵便番号
    889-1301
    住所
    児湯郡川南町大字川南2400-ロ
  • 細神社(ほそじんじゃ)

    細神社(ほそじんじゃ)

    古老の伝えるところによれば、往昔は尾鈴山腹松ノ木という高台に鎮座し、尾鈴大明神と称していた。海上を航行する船が当社の大前にさしかかった時、白帆を下ろして通過すれば転覆することはなかったと伝える。
    当社の創建は不詳であるが、松ノ木平より細村に遷座したのは、天正年間(1573~92)豊後国大友宗麟が日向国に乱入し、その鎮定後に遷座奉斎、その地名をとって細神社と称したと伝える。所蔵の棟札によれば、慶長十八年(1613)十二月再興、その後慶安四年一月、寛延元年十一月、寛政五年十一月、安政三年十一月、明治二十八年十一月に造営再興が繰り返されている。
    当社の付近には祭神饒速日命にちなむ地名として、矢研の滝、磐船がある。矢研の滝は、命が天降り給いし時矢を研いだ滝と、磐船は命が天降り給いし時この船に乗って降りられたと伝える。

    電話番号
    (0983)27-5379
    郵便番号
    889-1301
    住所
    児湯郡川南町大字川南5608番地
  • 白鬚神社(しらひげじんじゃ)

    白鬚神社(しらひげじんじゃ)

    宮崎県の中央より少しく北、霊峰尾鈴山を背に遥か日向灘を一望に収める風光明媚の地、白鬚権現山に鎮座し、天長二年(825)第五十三代淳和天皇の御代の創建と社伝に記す。旧社格を「竜宮伝説」によって白鬚大明神と号し、日向の国の地主神である。明治四年十一月郷社に列せらる。明治六年、社名を多賀神社と改称した。現在の社殿は天保九戊戌年三月十九日(1839)時の高鍋城九代藩主秋月種任公・十代種殷の寄進により再興され、その後五回営繕されている。当社は家内安全・延命長寿・災難厄除・安産・交通安全・牛馬の守護神として往時より秋月藩累代藩主・並びに庶民の尊崇頗る厚く、藩主よりは特に神領四石五斗及祭典料米並びに祭器、社殿造営等一切を寄進せられ、又神社を中心に畑地の寄進があった。明治初年廃藩の際之を失う。
    昭和六年白鬚神社と改称した。昭和五十年七月、ご社殿などの大修理を行い、同五十八年東、西参道の大鳥居各一基、境内社に六基の鳥居を建立、大玉垣も新設して境内が整備された。
    標高百㍍の小高き場所に鎮座する当社の前面には泉水谷より清水が滾滾と流れ「うどん川」という。境内には数百年を経た老楠、老杉、梛が鬱蒼と生い繁り、昼なお暗い森の中の奥之宮と称する祠に、「浦島大神」を祀り、荒神祠には迦具土神を鎮祭する。
    当社の西、二百㍍の所に御池川が流れ、連続して三つの滝が在り、一の滝の側下に「修業の岩屋」が現存して龍神を祀る。其処より川上約二㎞の所に龍ヶ脇の滝、高さが約百㍍が在り、奇しくもその上部の極めて寂寥感漂うところに深淵な滝壺が存在し、古代より主神(大蛇)が棲み居ると伝えられる。農業之神、子供の守護神として特殊の信仰がある。

    電話番号
    (0983)27-6335
    郵便番号
    889-1301
    住所
    児湯郡川南町大字川南1987番地
  • 八幡神社(はちまんじんじゃ)木城町

    八幡神社(はちまんじんじゃ)木城町

    当社の由緒は不詳であるが、豊前宇佐神宮の分霊を奉祀したと伝える。毎年十一月朔日には村中より神楽を奉納していたことが記録に見える。明治四年村社に列格、現在に至る。

    電話番号
    (0983)32-2136
    郵便番号
    884-0101
    住所
    宮崎県児湯郡木城町高城110-2
  • 大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)木城町

    大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)木城町

    創建は、神田他人の祖、重吉なる人が社殿を創立して崇敬したことに始まるといわれ、逐次遠近よりの参拝が多くなり、旧藩主の内室も厚く崇敬され、祭礼には代参などのこともあった。又、米良地方より毎年神楽方数名来り、神楽奉納の古例があったが、現在は郷土神楽を奉納している。棟札によれば、享保三年(1718)十二月二十一日、天保十一年(1840)二月十四日に再興されている。維新前は、小丸川対岸の古屋敷にあったが、祭りの際に竹筏で渡って水死者を出すなどのこともあり、黒木氏宅の氏神と合祀し現在地になった。伝説で有名な福永丹波守を合祀している。
    天正年間伊東方野尻の城主であった福永丹波守が、島津との戦いで敗戦し伊東義祐の堪気にふれ三年におよび許されなかった。
    天正五年島津の日向攻略のとき、丹波守は島津に通じ伊東氏は凋落することになった。このとき丹波守が米良山を越え、この地に逃れ賊に追い掛けられ南瓜の蔓に足をとられて討たれたと伝えられている。その福永丹波守の墓と伝えられている。その後対岸の福永神社に祭られるようになった。
    それでこの地方の人は南瓜を食べず、福永神社にお参りすると足の病がよくなると伝えられている。

    電話番号
    (0983)32-3727
    郵便番号
    884-0104
    住所
    宮崎県児湯郡木城町大字石河内935-3
  • 石神社(いしじんじゃ)

    石神社(いしじんじゃ)

    『寺社帳』に「石大明神、本地観音。正治二年(1200)十一月二十八日安部氏宗正、氏神ニ建立之由縁起ハ天正年中薩摩家伊東家石河内ニ而合戦之節紛失候故不明。」とあり、本社旧神職長友氏系図には、天文元年(1736)より代々長友家が詞官として奉仕していたことが記されている。

    電話番号
    (0983)32-3727
    郵便番号
    884-0104
    住所
    宮崎県児湯郡木城町大字石河内438番地
  • 國玉神社(くにたまじんじゃ)

    國玉神社(くにたまじんじゃ)

    創建の年次は不詳であるが、高鍋藩の「拾遺本藩実録」によると正徳三年一月十九日、善内町からの火災により国玉社・薬師堂を含む四十戸を焼失し、高鍋藩前藩主秋月種政から焼失者一戸に付き白銀一枚宛が支給され、国玉社・薬師堂も再興されたという。貞享三年の「高鍋藩寺社帳」によると、比木大明神御幣下に国玉大明神があり、本地は十一面観音としている。由来については『日向国神社纂記』などによると、天正年間、大友宗麟が島津義久との戦いで、国玉、月の輪などに陣を張った際、大友の軍師角隈石宗を藩州側の本江忠左衛門が討取ったという。軍師としての石宗を知っていた禎久が、彼のために社を建て、其下に石宗の首を埋めたといわれる。『日向地誌』によると大国玉神を祀るとなっている。
    神社にある最も古い棟札は正徳三年(1713)で、慶応四年(1868)神殿造作、明治二十五年(1892)神殿新築、明治三十四年(1901)屋根の銅板葺替、終戦の年には二回の空前の強い台風によって神殿被害、昭和二十一年(1946)神殿が修築された。
    さらに昭和四十六年(1971)の台風で境内の大木が倒れ、神殿破損、同年修築。明治二十五年以来数回の修築はあったが百数年経過した神殿も平成五年(1993)に台風で国玉神社並びに疫神社とも倒壊したので、地区住民が協議し平成六年十二月に神殿が新築された。

    電話番号
    (0983)32-2136
    郵便番号
    884-0101
    住所
    宮崎県児湯郡木城町大字高城1155-1
  • 八坂神社(やさかじんじゃ)木城町

    八坂神社(やさかじんじゃ)木城町

    『比木寺社帳』に、「四日市村」に祇園宮有り本地無之、勧請年月不相知、宮弐間に弐間半萱葺小社、其内ニ有并住吉、八幡、春日社有り。」とある。

    電話番号
    (0983)32-2136
    郵便番号
    884-0102
    住所
    児湯郡木城町大字椎木4267番地
  • 塚原神社(つかはらじんじゃ)

    塚原神社(つかはらじんじゃ)

    いつの時代の創祀か不明で、明治十一年ここを調査した平部嶠南の『日向地誌』も、村社、仁喜美谷にあり、祭神詳ならずとしている。塚原神社の西の高台が南に広がり、陽あたりの良い畑地となっている。ここを山塚原といい、この山塚原古墳と椎木、川原などの古墳とともに、昭和十四年木城古墳として県史蹟に指定された。山塚原には古墳21基が現存している。ここを土地の古老達は「オンジョ古場」とよぶ。姥捨山であったようだ。この原の南側に「ません馬場」といわれる幅約10メートル、長さ東西に約250メートル程の畦畔に囲まれたところがある。古墳の一部を削って造成された馬場の跡(現在畑地)がある。これが長禄元年(1457)都於郡城主伊藤祐堯が高城を陥したあと、設置した馬場だと云われている。この付近に塚原神社はあったといわれているが、現在の境内地の近くの「天神の森」といわれるところに移され、その後虚空蔵菩薩の境内地に合祀されている。此の境内には、樹齢三百年を越すと推定される椿が現存する。

    電話番号
    (0983)32-2136
    郵便番号
    884-0101
    住所
    児湯郡木城町大字高城4513番地
  • 多賀神社(たがじんじゃ)木城町

    多賀神社(たがじんじゃ)木城町

    多賀神社は比木神社の末社といわれている。なお、田崎坂を上りつめた所から西の方100メートルの所に、御多賀社跡があり、多賀神社の奥の院といわれていた社があった。神木のタブの木が大きくそびえている。社殿は岩淵公民館の奥にある。

    電話番号
    (0983)32-2136
    郵便番号
    884-0102
    住所
    宮崎県児湯郡木城町大字椎木1827番地
神社検索
神社データ(神社名、住所、由緒等)から全検索します。
地域
地域一覧