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宮崎県の神社

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  • 八幡神社(はちまんじんじゃ)新富町

    八幡神社(はちまんじんじゃ)新富町

    当八幡神社の創建の年代、由来については、その記録、棟札等焼失し不詳なれど、『宇佐大鏡』に、富田庄八十町が宇佐神宮領に属する記事が有り、八幡神社が宇佐八幡宮の分神として現在の地に奉建されたのが、その創建であることがほぼ確認された。それによると、当時すでに宇佐神宮領であった臼杵郡県の庄(今の延岡地方)の領内封民を、いまだ荒野の地であった富田方面に移し、新開田させ宇佐神宮領と定めたもようである。
    その開田当時のことが『宇佐大鏡』に次のように採録されている。
    「富田庄起請田四十四町、国司海宿祢為隆任永承年中封民十五人之代荒野之地差四至進宮立券之間所開作也」とある。
    宇佐神宮領として新開田する場合は、その地に宇佐神宮の神霊を移し奉祀して起請を立て開田に着手するを例としたのである。その開田に当る責任者、国司を別符(びゆ)者と称し、海宿祢為隆がその時の別符者に任じられ、為隆により宇佐神宮の分神が奉持され、即ち、宮を進め現在の八幡神社(元八幡宮)として奉祭されたのが始りであると推考される。
    当社で六年目毎に執り行う、特別大神事祭典は、旧高鍋藩秋月氏が筑前秋月より、財部(延宝四年高鍋と改む)に転封され、その後七代の種茂が封を継いだ。種茂の治世に藩内荒凶相重なり、そのうえ悪疫が流行したために、士、庶民共に困窮した。これを憂えた藩主は藩社、比木、八幡以下六社に自ら巡拝し、五穀豊穣、悪疫退散、藩民安泰の祈願神事を執行した。以来、六社が輪番制にて、旧暦十二月二日夜を徹して、夜神楽を奉納する神事は今日につづいている。

    電話番号
    (0983)33-3664
    郵便番号
    889-1402
    住所
    児湯郡新富町大字三納代2443番地ノ1
  • 熊野神社(くまのじんじゃ)新富町

    熊野神社(くまのじんじゃ)新富町

    不詳

    電話番号
    (0983)33-3664
    郵便番号
    889-1402
    住所
    宮崎県児湯郡新富町大字三納代2309-1
  • 厳島神社(いつくしまじんじゃ)新富町

    厳島神社(いつくしまじんじゃ)新富町

    由緒不詳。旧称厳嶋大明神といい、正観音を本地とすると『高鍋藩寺社帳』にある。また『寺社帳』には「縁起無之故勧請之年月日不明 祭祀之次第六月廿九日 名越 九月九日 十一月初午日」とある。明治四年村社に列格、現在に至る。

    電話番号
    (0983)33-3664
    郵便番号
    889-1402
    住所
    宮崎県児湯郡新富町大字三納代278-1
  • 紀伊神社(きいじんじゃ)

    紀伊神社(きいじんじゃ)

    古老の伝説によれば、文明の頃(1469~87)又は明応の頃(1492~1501)、富田村鬼付女の浜に一つの木面漂着したのを、日置の人持ち帰って勧請したのが当社であると伝えるが、詳細は不明。天正十五年(1588)筑前国秋月公日向へ御国替の当時より崇敬の神社にして、藩公の一族たる宇都宮弥三郎を神官に任じ、「神主兼宮司使嫡男代々可相勤之旨被付仰」との墨付により、今に至るまで其の子孫がこれを奉仕している。現在の社殿は、享保二年(1718)八月藩主の寄進にかかるものである。現在の拝殿は、昭和十一年三月に改築されたものである。

    電話番号
    (0983)33-3452
    郵便番号
    889-1401
    住所
    児湯郡新富町大字日置2947番地
  • 水沼神社(みずぬまじんじゃ)

    水沼神社(みずぬまじんじゃ)

    天正十五年(1588)秋月公が筑前国甘木から日向国高鍋に封ぜられた際、藩公の一族であった宇都宮弥三郎朝繁を神官に任じ、「神主兼宮司使嫡男代々可相勤之旨被付仰」との墨付により、今日に至るまで宇都宮家の子孫が継承して奉仕を続けて来た。
    神社所有の湖水ヶ池は面積六町余の広さがあり、夏になると蓮の白花が池一面に見事に咲盛り馥郁たる香を漂わせて、参拝者の心を和ませている。現在は新富町の湖水ヶ池公園に指定されている。この池の蓮は、秋月公が国替の際に、その苗を取り寄せて住民の殖産興業を慮られ、この池に移植されたと伝えられている。又蓮根は他所より特に味が良く、節も長く柔らかで、大変賞味されている。
    秋の大祭には当神社でも臼太鼓踊、嫁奴踊、棒踊等が氏子民により奉納されていたが、大東亜戦争中に中止されてから今日未だ復興されていない。
    当神社の「湖水ヶ池」には『富田村治要綱』によると、次のような伝説がある。
    昔神社の後方には、周囲十八町の南北に長い池があった。その岸には松が生い茂り、松林の中は、じめじめとして、昼も薄気味が悪かった。近くに、太郎兵衛という農民が、妻をなくし、娘と暮らしていた。家は貧しくても美しい娘だったので、末を頼みに日を送っていた。或る日、突然娘が見えなくなった。この池に落ちて死んだのだ。老父は驚き哀しみ、娘を探したが、姿はどこにも見えない。泣きながら娘の名を呼び続けると、静かな水が動き、髪の乱れた娘が浮かんだという。驚く間もなく、娘の体は水底に沈んだ。老父が前に増して悲しみ、娘の名を呼ぶと、再び水が動き、現れたのは大蛇であった。池の主が娘を取ったと考えたか、老父は「今日より我が子を見ず」と嘆いた。この言葉から「子見ずの池」と呼ぶようになり、それが訛って「湖水ヶ池」となったのだという。

    電話番号
    (0983)33-3452
    郵便番号
    889-1401
    住所
    児湯郡新富町大字日置679番地
  • 日置神社(ひおきじんじゃ)

    日置神社(ひおきじんじゃ)

    由緒不詳。『日向地誌』には「村社上日置ニアリ社地広十二歩 邇々岐命祭ル 例祭大陰暦九月二十日ナリシカ明治六年以来ハ一定セス」とある。

    電話番号
    (0983)33-3452
    郵便番号
    889-1401
    住所
    児湯郡新富町大字日置3442番地
  • 大淵神社(おおぶちじんじゃ)

    大淵神社(おおぶちじんじゃ)

    古老の伝説によれば本社は古き社なるも創建の年月は詳ならず。当社は元松本氏の先祖某厚く尊崇して現在の処に移し奉った。
    社殿両側に凡そ四、五百年経たという松の大樹があり、是は創建の際に植奉りたるものと伝えられている。
    このため創建は天正年間(1570)以前とみられていたが、此の松の大樹は昭和二十年の台風の為に倒れた。
    当神社の事を大将軍様といって土地の人々は敬い牛馬の神として、大東亜戦争頃では、参拝者も多く、西都市方面からも、旧5月25日、旧9月25日には参拝する人が多かった。
    参拝した人は、境内の竹の枝葉を戴いて持ち帰り、牛馬に食べさせ、神の加護を仰いだ。

    電話番号
    (0983)33-3747
    郵便番号
    889-1403
    住所
    児湯郡新富町大字上富田2238番地
  • 富田八幡神社(とんだはちまんじんじゃ)

    富田八幡神社(とんだはちまんじんじゃ)

    本社は天慶年間(936)の創建にして、富田の地が、宇佐神宮領富田荘として開拓された際、宇佐神宮の分霊を奉祀したのに始まる。年代は不明だが湍津姫を合祀している。
    また当時の地方開拓に偉業ありし祖神を、奉祀したとも伝える。保元年間(1157)鎮西八郎源為朝当地に来たり、社の東方一粁、字鬼付女の、観音山に城砦を築き占居の際、本社を厚く崇敬し、大なる鉄鏃甲袖を神宝として寄進した。その後、為朝公の霊を合祀したとい伝う。寄進した鉄鏃甲袖は明治初年廃藩に際し紛失した。
    社蔵の旧記宝物類は、元亀天正年間(1571)屢々兵乱あり、為に悉く焼却せられ、現在は佐土原島津藩領になってからの慶長十三年(1608)再興の棟札其他数枚蔵せるにより、創建の由来遠きを窺うに足る。
    本殿のすぐ後に、周囲70メートル、高さ2.5メートルの円形式古墳があり、濠面に古樹森鬱としている。境内であるため完全に保存され、富田古墳第一号に指定されている。
    旧佐土原藩主厚く尊崇し、社領高十石寄進せられ、社殿の営造並びに例祭には代参ありし社であった。
    以前は当神社を富田八幡宮、八幡宮、為朝八幡宮とも言っていたが、明治維新の際、富田郷を分ち、上富田、下富田の二大字となったので、社名を上富田神社と称することになった。
    其後社名変更の必要を認め、大正十三年四月七日(1922)付許可を得「富田八幡神社」と改称した。

    電話番号
    (0983)33-3747
    郵便番号
    889-1412
    住所
    児湯郡新富町富田東一丁目43番地
  • 熊野神社(くまのじんじゃ)高鍋町南高鍋雲雀山

    熊野神社(くまのじんじゃ)高鍋町南高鍋雲雀山

    天保四年(1833)に提出された『高鍋鎮座神名帳』によると勧請年月は不明であるが、寛文元年(1661)享保七年(1722)にそれぞれ再興された。祭礼は十一月十二日の由が記されている。元来雲雀山村内にあったが明治四十二年二月二十五日高岡へ移転した。
    熊野神社は熊野三所権現を祀り、同所にある三体の石像も修験道に関係がある。中央に不動明王、右に役の行者、左に理源大師の像があり、文化五年(1808)七月宮崎古城大越家円立院作の刻銘がある。元水谷原で祀っていた。二百十日に祭礼を行い、当日は農家の参拝者の多かったのは、この祭礼に護摩を焚き農作の祈禱を行ったからであり、その場所を尊称して「ゴマサ」と云ったものである。
    一、ゴマ様と熊野神社と石像
    明治四十二年熊野神社を移転したのには次の理由がある。高岡山のことを通常「ゴマサ」という。「サ」は「サマ(様)」の約音である。「ゴマ」とは梵語のHoma 梵焼、火祭の意である。密教で火炉を設け、智慧の火で煩悩の薪を焚き、真理の聖火を以て魔害を焼尽くす標識とし、不動尊を本尊とし、その前に檀を設け行う修法である。息災、増益、降伏鉤召(まねく)、敬愛の五種がある。
    「高岡山」はその護摩が行われたところである。地福寺本寺の恵成院が寛政五年(1793)七月八日、高岡山に一二間四方の護摩法檀場(護摩を焚く檀)を作ることを願い出て許可され、十月一日に護摩法要を行った由が、『旧記抜書』巻二、『続実録』巻八に記録せられている。

    電話番号
    (0983)23-1728
    郵便番号
    884-0003
    住所
    児湯郡高鍋町大字南高鍋雲雀山11576
  • 菅原神社(すがわらじんじゃ)高鍋町蚊口浦

    菅原神社(すがわらじんじゃ)高鍋町蚊口浦

    天正年間、旧高鍋藩主秋月氏が転封されてきた際、太宰府の分霊を高鍋城内に崇祀したのが其の起源といわれ、当社は其の後現在地に遷座したものと伝える。現在の石の鳥居に「元文元丙辰年(1736)正月再建」の彫刻があり、本殿棟札には「寛政十戌午年(1798)三月十四日再建」とある。
    明治四十年七月粟野神社合祀許可となり現在に至る。

    電話番号
    (0983)22-2700
    郵便番号
    884-0004
    住所
    宮崎県児湯郡高鍋町大字蚊口浦19-7
  • 霧島神社(きりしまじんじゃ)高鍋町

    霧島神社(きりしまじんじゃ)高鍋町

    由緒不詳、古来より当社は、高三尺、方四尺の石垣の中央に鉾を建て神龍となし、本殿を造らず祝詞殿、拝殿は二十一年の台風に倒れたが、以後再建されたと思われる。
    明治四年村社に列格、現在に至る。

    電話番号
    (0983)22-2700
    郵便番号
    884-0003
    住所
    児湯郡高鍋町大字南高鍋10042番地
  • 熊野神社(くまのじんじゃ)高鍋町北高鍋

    熊野神社(くまのじんじゃ)高鍋町北高鍋

    当社はもと巡礼堂地区の鎮守神で、巡礼者によって権現様が祭祀されたということから巡礼堂とも称えられて来た。ところが神社は東向きに建てられ、巡礼堂地区は同神社から後方にも当るので「うっちょけ権現」ともいわれていた。そこで一寸小路の佐田長保氏の先代が土地を奉納、鳥居等を建てて参道とした。
    霧島大権現、八大龍王(通称ハゥテラサ)ともに昭和二十四~五年頃農地改革頃に当社へ合祀したものである。
    当初、権現様を勧請したといわれる巡礼者は後に帰国、その後、北の方(今の都原純一氏の家敷の一角)に小塚を造り昭和の初期頃までは偲び祭られたという。

    電話番号
    (0983)23-1728
    郵便番号
    884-0002
    住所
    児湯郡高鍋町大字北高鍋道具小路1293番地
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