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宮崎県の神社

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  • 藤田神社(とうだじんじゃ)

    藤田神社(とうだじんじゃ)

    創立年月日不詳であるが、文明(1467~87)以前の創建と伝えている。天保四年(1833)四月二十二日火災のため焼失し、同年九月二十四日再興した。しかし、本社はもとは三納村字嶋田に建立の社にして、旧佐土原藩領の時三財村字藤田村の地域内となる。行政区域が定まる際三納村となったが、古来より藤田村の産土神社にして、島津公より神領を賜わり、その他社殿等もご寄付の社である。『日向地誌』によれば、藤田村の飛地島田にあり、稲田姫を祭り、旧称年の神と称したが、明治四年現名に改めたとある。明治維新の際村社の格に列せられる。明治十九年十二月本殿・拝殿等改築、明治三十四年十月全面増改築、同四十三年十一月三納・三財両村の氏子中協議の上中央にあたる今の鎮座地に移転遷座した。氏子数五十八戸にて神社に関する経費を支出しているが、三大祭には三財村より幣帛供進使の参向があり荘厳なる祭典が行われてきた。

    電話番号
    (0983)44-4637
    郵便番号
    881-0114
    住所
    西都市大藤田1972~1974番地
  • 加勢神社(かぜじんじゃ)

    加勢神社(かぜじんじゃ)

    本社創建不詳なれど、社記に称徳天皇、神護景雲三年十一月十八日勧請するとある。また天文九年(1540)棟札には、伊東義祐武運長久とある。これをみるに、伊東氏以前の創立であるのは明らかで、その来歴の久しきがわかる。島津氏の治世では神領高十石寄進され、ご朱印も保存し、代々尊崇きわめて篤かった。
    明治初年までは王宮大明神と称したが、明治四年五月村社に列格、地内にあった年の神を合祀し、加勢神社と称した。なお例祭日は、勧請日なる十一月十八日であったが、明治四十三年の例祭日変更願により十一月二十四日となる。
    口碑によれば、高屋山陵一里以内に加勢神社の祭神である天鈿女命及び猿田彦命のご陵墓があり、今、三財亀塚なる前方後円式の古墳がこれであると伝える。この両墳は、古来土地の人々のもっとも畏敬崇仰する所である。
    境内神社として、罔象女神を祀る大将軍神社がある。

    電話番号
    (0983)44-4637
    郵便番号
    881-0103
    住所
    西都市大字加熱2116番地
  • 天神社(てんじんじゃ)西都市

    天神社(てんじんじゃ)西都市

    当社は、慶長二年(1597)10月古園に鎮座と伝える。明治二十三年旧正月12日橘より移転、明治四十四年12月、現在の地に鎮座し今に至る。
    これ以前は米良小川より移転した。
    『宮崎県史蹟調査報告』には「本社の創建不明である。本郡東米良山、児原稲荷神社伝に、其西陲に寒川と名くる地有、是即ち大山積神誕生所の地なり、爰に旧祠有、山神神社と称す、即大山積命を祭る云々とありて、本社を指称するも誕生の地に付ては、之を確証するの徴憑くなし」と記されている。」

    ※寒川地区は平成元年三月に最後の住民が集団離村し、四〇〇年の歴史に幕を下ろした地区であります。しかしながら、天神社は今なお鎮座され、例祭には旧村民が参列され、毎年欠かさず斎行されています。

    電話番号
    (0983)44-4637
    郵便番号
    881-0116
    住所
    宮崎県西都市大字寒川128-4
  • 下三財神社(しもさんざいじんじゃ)

    下三財神社(しもさんざいじんじゃ)

    和銅4年(711)旧2月初午の日に初めて山城国紀伊郡の稲荷山に勧請された物で稲荷大明神と称した。元徳2年(1330)伊東祐持、日向国の国主として伊豆の国より初めて都於郡城主として下向した際、この神を奉斎し、この処に勧請し、岩崎稲荷と称した。社領1000石を附し、社地境内及び神殿の構造を宏大にして神職上下18人、内侍1人、修験者1人、また寺院別当僧を置き毎年9度大祭典を行った。日向一円を統治した伊東氏が長禄元年(1457)より天正5年(1577)に至るまで120年にわたり、都於郡城主として崇敬した神社である。境内には、生涯の祈願をこめて参詣し、社前で急死した伊東義益(第11代都於郡城主)の霊を祀った六地蔵幢が立っている。伊東氏が去った後も島津氏が佐土原藩主となりその崇敬を受け、社領高24石6斗の寄進があった。所蔵の棟札によれば、享和12年(1812)11月、島津忠就公により再興され、その後もたびたび造営再興が行われた。
    明治4年5月下三財神社と改称し、村社に列せられ、明治40年2月神饌幣帛料供進社に指定された。
    御祭神は衣食住の守護神として一般に親しまれる神で、稲荷大明神として氏神に奉斎されている。五穀豊穣、家内安全、商売繁昌万の業務の成功を祈請し、農業では特に牛馬や養蚕の神として崇敬している。大田の神は福寿の神として、大宮姫能神は舞楽の神として崇敬されている。すなわち寿命長久、家富み国栄え、諸々の幸福を満ち足らわし、お家繁昌無病息災と歌い舞い「笑う門には福来たる」で全国的に崇敬の厚い神々である。

    電話番号
    (0983)44-5691
    郵便番号
    881-0113
    住所
    宮崎県西都市大字下三財3467
  • 上三財神社(かみさんざいじんじゃ)

    上三財神社(かみさんざいじんじゃ)

    本社の創建は不詳であるが、桓武天皇の御代延暦元年十一月申日と伝える。出雲国簸川の地名を取って川上大明神と称した。
    文明七年(1473)の棟札に、「奉再興川上大明神大願主藤原祐堯、祐国」とあり、伊東氏時代より尊崇され、社領の寄進もされた。島津氏の治世になっても、高十石を寄進し崇敬最も深かった。
    「古事記」にいう八岐大蛇退治の縁起による姫をお祀りした神社で、簸ノ川上の故事をひき、川上神社と称した。明治維新の際三財神社と改称、明治四十五年上宮より現今の所に移転、諏訪神社を合祀した。

    電話番号
    (0983)44-4637
    郵便番号
    881-0115
    住所
    西都市大字上三財6826ノ1番地
  •  山王大物主神社(さんのうおおものぬしじんじゃ)

     山王大物主神社(さんのうおおものぬしじんじゃ)

    当社の創建は不詳であるが所蔵の棟札によれば、文明三年(1469)十一月吉日「大願主藤原(伊東)祐堯天下泰平国土豊饒国中平安在々処々城内堅固万民歓楽の為再興し奉る山王権現一宇」とある。当時は山王権現または山王宮と称して、伊東公の尊崇厚く、元禄二年(1689)三月十日「藤原朝臣島津惟久公御武運長久息災延命祈所として再興し奉る山王権現一宇」とある。
    児湯郡山田村神領十石の内山王神社へ五石、山田神社へ五石を配分供せられたと記載された「知行高名寄帳」が現存しており藩主の崇敬厚い神社であったことが実証できる。しかし明治維新後の制度改革により、一切の費用を氏子崇敬者の拠出により経営を維持し現在に至る。
    御祭神大物主の神は大国主の神の和魂で、大国主の神が国土経営の際、大国主の神の現身から分離して別個の一柱の神となって出現された魂の神様である。大物主という名は、すべてのものの主宰者という意味で、大和国三諸山の上に鎮まり大国主の神を援助して国土建設の事業を完成した神である。
    従来山王神社と呼んでいたが、昭和三十七年三月三日付で山王大物主神社と改称した。

    電話番号
    (0983)44-5653
    郵便番号
    881-0112
    住所
    西都市大字山田3698番地-乙
  • 荒武神社(あらたけじんじゃ)

    荒武神社(あらたけじんじゃ)

    本社は、大字荒武字馬場田に鎮座し、祭神は天孫の御子火明命の神霊を祀り、往古は東宮大明神と称した。神殿の創立は詳ではない。古老の伝えるところによると、天孫笠狭の碕に行幸された時、大山祇命の二女木花咲耶姫命をもって皇妃とし、此地において生まれたのが命であるという。
    都於郡高屋の山陵に葬り奉るとあるように、彦火々出見命の山陵の地と伝える。正中元年山陵を山下に移し奉りて大彦の権現と奉祭し、後また移して荒武村字神山田権現山に祀る。伊東、島津両氏より厚く尊崇され、島津氏の代には社領十石が寄進された。延宝八年(1680)霜月二十二日、島津山城守久寿公彦権現の宮一宇を再興した。さらに、享保十八年(1733)十一月下三財へ遷座し、文化戊辰年十一月再興された。明治維新の際、東宮神社を火明命の神殿に合祀し、この時神号を荒武神社と改称した。明治四年村社に列格。大正八年現在地に遷座、稲荷大明神を併せ祀り現在に至る。

    電話番号
    (0983)44-3071
    郵便番号
    881-0111
    住所
    西都市大字荒武418番地
  • 霧島神社(きりしまじんじゃ)西都市鹿野田

    霧島神社(きりしまじんじゃ)西都市鹿野田

    当社は都於郡村大字鹿野田字高屋に鎮座する。伊東祐持公が高屋に浮船城を築くにあたり、土地狭隘なるをもって現在の地に移し、産土神として厚く崇敬した。その後島津氏が当地を領し、元禄五年(1692)十一月藩主島津惟久公は当社を再建し、さらに神領高十石を寄進し、丁重なる祭祀を執行して来たという。
    しかし、その後明細帳脱漏のため出願の結果、明治三十九年十月三十一日明細帳編入の件が許可された。昭和十六年十月村社に列せられ、同年十二月、神饌幣帛料供進神社に指定される。

    電話番号
    (0983)43-4085
    郵便番号
    881-0104
    住所
    宮崎県西都市鹿野田11542番地
  • 岩爪神社(いわづめじんじゃ)

    岩爪神社(いわづめじんじゃ)

    三財川下流右岸大字岩爪にあり、当地は景行天皇の御代、日本武尊が熊襲征伐のためこの地に来られた際、紀伊の熊野大権現に凶賊退治の祈念をした霊地であるという。のち天長三年(826)十一月空海大師が当地に来て、国家鎮護のため当社を建立したと伝える。
    永禄十一年(1568)三月火災により、本殿・拝殿・由緒書・宝物等焼失し、翌十二年(1569)十月再建された。
    しかし、当時兵戦激しいため、従前の様な社殿が造れず、ただご神体を納める小祠であった。
    その後天文六年(1537)、都於郡領主伊東義祐が本殿・拝殿・鳥居等を寄進し再興する。江戸期には佐土原藩主島津公が社領三十石を寄進した。現社殿は、五代藩主島津惟久の母・松寿院が当地出身のため、神殿の荒廃を嘆いて白金を献じ、別当法印権大僧都慶伝に修築させたものと伝える。
    旧称三社大権現と称したが、明治初年岩爪神社と改称、村社に列せられた。明治四十年二月、神饌幣帛料供進社に指定された。
    特殊神事としては、毎年一月六日、宝印祭として農作物の豊穣祈願・家庭健康祈願を実施している。

    電話番号
    (0983)44-5653
    郵便番号
    881-0106
    住所
    西都市大字岩爪1084-イ
  • 山田神社(やまだじんじゃ)

    山田神社(やまだじんじゃ)

    康暦元年十一月、旧藩主島津惟久公が創建したもので和歌山県熊野那智新宮のご分霊を奉祀し、那智権現と称した。以来、島津公の尊崇厚く、現在のご本殿は島津公のご寄進おによるものとされ、祭祀料五石の神領を奉献された。明治四年五月二十五日郷社に列格され、山田神社と改称された。氏子区域五ヶ村の祭祀であったものが、明治十六年一ヶ村の維新経営ということになった。昭和の初年より宮崎県から神饌幣帛料を供進され、例祭・祈年祭・新嘗祭の三大祭には知事の参向があり、盛大な祭典が執行されていた。また昭和三年ご大典記念として幣殿・拝殿を改築した。当時の鎮座地は現在地の山上であったが、昭和四十一年の集中豪雨の災害で、崖崩れがひどく、危険が高まったため現在地に遷座した。境内神社として、木宮神社(祭神、木宮大神、倉稲魂神)がある。

    電話番号
    (0983)44-5653
    郵便番号
    881-0112
    住所
    西都市大字山田1343番地
  • 鹿野田神社(かのだじんじゃ)

    鹿野田神社(かのだじんじゃ)

    本社の創立年代は不詳であるが、享保十一年(1726)社殿を再興した時の棟札から弘安(1278~1288)以前より勧請された古社であることが推考される。弘安六年(1283)より貞享三年(1686)に至る四百余年間に九度の上棟が行われ、享保十一年(1726)に至り、社殿の腐蝕痛嘆し、岩を穿ち社地を拡め壇を築き柱礎を替え、さらに再興したもので、領主伊東氏の崇敬につぎ旧佐土原藩主島津氏は社領十石を寄進し、累代崇敬篤かった神社である。
    「日向地誌」によれば、潮神社として「社地の前に潮井あり 其地海浜を距る三里三十余町 地勢の海面より高きこと幾丈なるに、此井海潮と共に満涸あり 大潮の時は井中より溢れて地上に汎濫す 其味鹺鹹海潮と少も異なるなし 奇なりと謂ふへし」とあり、ここを塩籠明神と称し、豊玉姫を祀っている。古来、遠近よりの参拝客多く、この社前の塩水の霊泉を汲みて帰り、宮詣での土産とする。
    別称潮妙見大神・潮様とも称したが、明治六年に至り鹿野田神社と改め、社格を郷社に列せられ、同四十年二月神饌幣帛料供進神社として指定された。

    電話番号
    (0983)43-3971
    郵便番号
    881-0104
    住所
    西都市大字鹿野田2020番地
  • 羽黒神社(はぐろじんじゃ)

    羽黒神社(はぐろじんじゃ)

    往古より沼口、長友、村田、村井、中沼、長沼、下河辺、小山、大田、大河辺、田原、佐藤の諸氏の氏神として崇敬されてきた。社伝によれば、はじめ沼口、長友氏等の祖先で俵藤太という者、天慶三年(940)軍功により奥羽の鎮守府将軍に任ぜられ、その子孫奥羽の間に繁栄し、羽黒神社をもってその産土神とした。
    のち、その子孫九州移封となり、長友左京享行安に至って、建武二年(1335)の軍功により、日向国海江田・平郡・下富田・浮田大塚別府を領し、児湯郡岡富村有峰の城主となった。ここにおいて奥州在住の当時より産土神として尊崇した羽黒神社を上穂北村河原崎に分遷奉祀し、毎年九月九日をもって祭日と定め、神殿改築、祭典料米等寄進された。その後一ツ瀬川の氾濫により、社殿を右松に遷座奉斎したと伝える。天正年間伊東氏のために攻亡され、以後地区の私祭神となった。
    所蔵の棟札によれば、寛永十六年(1639)、正徳元年(1711)九月、宝暦八年(1758)十一月に再興され、その後もたびたび造営改築が行われている。

    電話番号
    (0983)42-2870
    郵便番号
    881-0003
    住所
    西都市大字右松1191番地ロ号
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