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宮崎県の神社

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  • 熊野鳴瀧神社(くまのなるたきじんじゃ)

    熊野鳴瀧神社(くまのなるたきじんじゃ)

    高千穂町西部大字河内の中央部に鎮座する。
    当社の創建は定かでないが、古伝によれば河内村の有藤氏の祖栄四郎が、紀州熊野の神を篤く信仰し、これを本村に勧請したい願望にて毎年、年籠りに熊野本宮に参詣し七ヵ年の間続けその神社に乞うて勧請し、河内村の総鎮守として奉斎したという言い伝えがある。
    しかし、棟札によれば、八十八代後嵯峨天皇の乙巳八月二十八日、三田井城主、大神高千穂太郎が造立したとも伝えられ一定しない。古くは熊野三社大権現と称した。
    その後明暦二年再建され、宝暦八年(1456)正月社殿を炎焼したが、同十年(1458)五月再建した。文化三年(1806)六月再建され、明治九年五月改築した。
     『日向地誌』によると、旧川内村には、旧称熊野三社権現(中川内にあり)祭神、伊弉冉命、事解男命、速玉男命、旧称鳴滝六社大権現(上川内にあり)祭神鸕鷀草葺不合尊、豊玉姫、彦炎出見命、神倭磐余彦命、吾平津姫、旧称北野天満宮(夕潮にあり)、祭神、菅原道真の三社があり、明治四年、中川内神社、上河内神社、下川内神社とそれぞれ改称し村社となった。明治四十年この三社を、中川内神社に合祀し、熊野鳴滝神社と改称した。鳴滝元宮の滝は年中清水が滔々と流れ落ち、秋の紅葉の頃は特に美観であり、厳冬ともなれば滝水は一本の氷柱となりて其の景観は実に素晴らしいものである。
    鳴滝神社は昔より牛馬の守護神として知られていて、戦前までは村内の氏子崇敬者は勿論、郡内をはじめ遠くは大分、熊本の両県の人々がこの滝の水を汲んで牛馬に与えて、牛馬の安全と子孫の繁栄を祈念して、馬に乗ったり牛を引いたりして参拝する者が多かった。
    当社参道石段の右手にある有藤家の宅地内には、高さ二十七、七メートル、目通り幹囲七、三五メートルのイチョウの巨樹があり、国の天然記念物に指定されている。

    電話番号
    (0985)22-7228
    郵便番号
    882-1414
    住所
    宮崎県西臼杵郡高千穂町河内32-2
  • 祖母嶽神社(そぼだけじんじゃ)

    祖母嶽神社(そぼだけじんじゃ)

    神武天皇御東征の時、紀州沖の海戦において台風の危難にあい、兵船覆えらんとするや西南をかえりみて、添利山(そほりやま)を望み彼の山はわが神霊の坐す所なり。願わくば神威顕現して海苔を警め皇孫の危難を救護せよと祈念されたところ、たちまち波はおさまったという。
    神武天皇の祖母はこの霊峰の祭神豊玉姫命であり三〇〇〇年来、祖母山の頂上に鎮座せられていたが、戦国末期大友氏系の匪賊の為破却され、今は僅かに石祠を安置するのみである。豊玉姫命の御子鸕鷀草葺不合尊を生み給いて後、八尋の和邇となって海に入り給う時に、干支皆卯指し三国の人卯月初めの卯の日を以て祭日と定めて祀ってきたが、明治以後は各地祭日を異にしている。
    祖母嶽下宮八社の一つとして祖母嶽大明神とよばれ、寛文九年に領主有馬左衛門佐康純が再建したと伝える。明治四年領主の通達をうけ、神原神社と社名を改めた。明治十六年(1883)十一月二十日許可を得て、祖母嶽神社と改称した。明治四十年五月十八日郷社祖母嶽神社となる。祖母嶽絶頂に八五畝九歩の社地と一町九畝二十一歩の境内がある。

    電話番号
    (0982)75-1008
    郵便番号
    882-1415
    住所
    西臼杵郡高千穂町大字五ヶ所1662番地
  • 二嶽神社(ふたつだけじんじゃ)

    二嶽神社(ふたつだけじんじゃ)

    宝永四年(1707)の神鏡裏面の刻字より、相当創立の古い神社であることが察せらる。祭神は神功皇后、応神天皇外、合併の祭神を合祀、二嶽八幡は本郡に於ける八幡勧請最初の地にして高千穂八十八社の一として遠近の尊崇が深かった。

    電話番号
    (0982)74-8239
    郵便番号
    882-1622
    住所
    西臼杵郡高千穂町大字上岩戸215番地
  • 石神神社(いしがみじんじゃ)

    石神神社(いしがみじんじゃ)

    古老の口碑に三毛入野命(高千穂神社・十社大明神)の使牛を、社傍におまつりしたのが創建の由来といわれている。依って里人は牛神明神と称して信仰してきた。牛馬の守護神としての信仰が厚い。
     『日向地誌』によると、旧称石神大明神と称していたが、明治四年に野方野神社と改称し、さらに、昭和二十八年五月石神神社と改称した。
     昭和四十五年四月、大字岩戸八三二四番地にご社殿、神楽殿、手水舎、社務所を造営移転した。

    電話番号
    (0982)74-8239
    郵便番号
    882-1622
    住所
    宮崎県西臼杵郡高千穂町大字岩戸8490-2
  • 鉾神社(ほこじんじゃ)

    鉾神社(ほこじんじゃ)

    往昔、祖母嶽大明神の下宮として県境、鉾峠に勧請したのが神社の起源といわれる。以来、鉾大明神とも称せられた。風除の守護神として遠近の信者も多く、享保二十一年(1736)社殿再建の棟札がある。宝暦年中にその山腹に社殿を営み、一般参詣者の便を計ったが位置遠隔にして参道険難であったため、老幼の人々の登山が困難となり、明治五年六月更に現在地に遷座し、地内の天満宮を合祀し菅原神社と改称したが、社名が由来と合わないため大正十二月四月鉾神社と改称した。

    電話番号
    (0982)74-8239
    郵便番号
    882-1622
    住所
    西臼杵郡高千穂町大字上岩戸1456番地
  • 落立神社(おちだちじんじゃ)

    落立神社(おちだちじんじゃ)

    弘仁の頃、三田井家の遠祖大神大太惟基公が熊野三社権現を勧請したと伝え、若一皇子大権現と称していた。永正五年(1508)三田井越前守親武が再建した棟札がある。古老の伝えでは、懐妊の女性が参拝して祈れば必ず安産するという。よって例祭には婦人の参詣が多く旧岩戸村の鎮守の神である。
     明治二年落立神社と改称し、同四年郷社に列せられ、同四十年神饌幣帛料供進社に指定された。

    電話番号
    (0982)74-8239
    郵便番号
    882-1621
    住所
    西臼杵郡高千穂町大字岩戸2573番地
  • 八幡大神社(はちまんだいじんじゃ)

    八幡大神社(はちまんだいじんじゃ)

    高千穂町の中央部下野川流域に位置する字八幡に鎮座する。
    建久三年(1192)岩戸山裏村(現在の上岩戸)二ツ岳に顕現の正八幡を大神朝臣大太郎惟元が御神託をうけて奉祀したのが創祀とされている。社殿の創建は宝治二年(1248)勅命をうけ比叡山延暦寺鶏足院から使僧普安歓心大師が下向、翌宝治三年(1249)六月十六日別当寺八幡山無量寿院鶏足寺とともに成就、大神高千穂太郎政信公自ら四百余騎を引きつれて祭礼を奉仕したと伝えられている。その後社殿が大友宗麟の兵火で焼失する等の星霜を経て明治維新に別当寺が廃寺となり、明治四年村社に列し、昭和三年郷社となる。
    現在の本殿は天明四年(1748)に建立されたもので、拝殿は昭和十三年五月改築されたものである。
    また、下の弓道場は昔は大きな池であった。天正六年三月(1578)豊後国(大分県)大友宗麟の兵火により社殿が炎上した時、その池から大蛇が立ち上がり、火を消そうと池の水を浴びては火に立ち向かった。しかしとうとう力尽き、東の方二百㍍程の草原で息絶えた。村人らはとても悲しみ、長々と倒れていた大蛇の頭と尾の所に供養の石を建てた。その地を「長尾野(ながおの)」と呼び、今も集落名となっている。

    電話番号
    (0982)77-1502
    郵便番号
    882-1412
    住所
    西臼杵郡高千穂町大字下野569番地
  • 柚木野神社(ゆのきのじんじゃ)

    柚木野神社(ゆのきのじんじゃ)

    創立の年月は不詳である。年神、山神が相殿に祭られて年大明神とも称した。井川の元という所に鎮座していたが、明治四年十二月許可を得て現在地に移転し、地内の小社、菅原道真公を合祀して柚木野神社と改称し同年村社に列せられた。昭和三年十月二日、神饌幣帛料供進社に指定された。
    当社の鎮座する柚木野地区には、県の無形文化財に指定された、柚木野人形浄瑠璃が伝わっている。明治以前、地方に浄瑠璃が流行しはじめた頃、趣味のある者が寄り集い、松の木瘤を利用して素朴な人形をつくり、芝居を始めた。これが柚木野人形芝居の始まりである。その後、四国の阿波より人形・衣装を購入し、柚木野地区の人々により保存伝承されている。代表的な出しものとして「阿波の鳴門」、「源平屋島の合戦」等があり、春秋の氏神の祭礼に上演されていたが、現在は不定期になっている。
    また昔から柚木野神社では、毎年秋の彼岸の入りから彼岸明けまでの一週間、麻から夕方まで飲んだり食うたりして、神社の神様の御子守をする習慣が今なお続いている。

    電話番号
    (0982)77-1665
    郵便番号
    882-1411
    住所
    西臼杵郡高千穂町大字上野932番地
  • 黒口神社(くろくちじんじゃ)

    黒口神社(くろくちじんじゃ)

    炎焼の為旧記を失い創立の年月は不詳である。天歴九年(955)再建の棟札があり、その後慶安二年、元禄元年(1688)、寛政五年(1793)に社殿再建の棟札がある。
    社号は初め大空天神社と称して、天村雲命、天三降命の二神を祀った。明治四年十二月に官達により村内の小社、祭神大山咋命、大山祗命、須佐之男命、建御雷命、経津主命、菅原道真公を合祀して社名を黒口神社と改め、同年九月に村社に列した。大正十五年六月十一日に神饌幣帛料供進社に指定されている。同社は向拝柱にある竜の彫刻をはじめ、彫刻の多い社殿で知られる。
    天村雲命に関して次のような伝説がある。遠い神代の昔天村雲命は牛に乗って天からお降りになった。その時命は上野村と田原村との堺にある田原川の西岸の森に落ちられ、牛は椿の木にかかり眼を潰した。命は東岸の妹生迫と西岸の釜石との住民に助けを求められたがそのいずれも助けにくるものはなく、そのうちに松の下の人々が聞きつけて命の牛に水を汲んで与えた。命は松の下の人々の親切を悦ばれたが、釜石と妹生迫の住民の不親切を怒られ、末永く聾の絶えることはあるまいと叱りなさった。命の手当てのかいなく牛は八日目に死んでしまった。命が八日間住まれたことからこの森は八日森(訛ってやか森)と呼ばれるようになった。そして牛に与える水を汲んだ池は今も冷水が湧いて絶えることがないという。(『日向の伝説』)

    電話番号
    (0982)77-1665
    郵便番号
    882-1411
    住所
    西臼杵郡高千穂町大字上野2215番地
  • 上野神社(かみのじんじゃ)

    上野神社(かみのじんじゃ)

    当社の創建は不詳であるが、紀州熊野神社を分祀勧請し、熊野神社と称していた。
    天文十四年(1545)三田井親武により再興されている。明治四年原野神社と改称、明治三十五年(1902)九月関之宮(祖母嶽神社とも称す)枳原(げづはら)八幡その他近隣の小社(例えば天満宮)等を合祀し、上野神社と称し現在に至る。
    熊野神社の境内には王子権現と称し、順徳天皇の第一皇子寒厳(かんがん)和尚(伝説によれば後鳥羽天皇の第三皇子であるとも伝えられ、現在の竜泉寺の開祖)を御祭神とする神社が時流に従って、栄枯盛衰を重ねたと言われている。

    電話番号
    (0982)77-1688
    郵便番号
    882-1411
    住所
    西臼杵郡高千穂町大字上野3389番地
  • 芝原神社(しばはらじんじゃ)

    芝原神社(しばはらじんじゃ)

    創立年月日は不詳であるが、紀州熊野神社を勧請した社と伝えられ、熊野三社権現、熊野大神社と称した。大永二年(1522)領主三田井右武再建になると云われている。その後、天文十七年(1548)三田井親武により再興された。
    明治六年村社に列せられ、芝原神社と改称した。
    地内には、県史跡に指定された吉野朝勤王家芝原又三郎の墓がある。南北朝時代、芝原又三郎入道性虎は一族を率いて九州の宮方の主力であった菊池・阿蘇氏を助け、武家方の小弐・大友氏と戦った勤王家である。地元の人々は芝原様の墓、性虎の墓、入道の墓として親しんでいる。『宮崎県地名大辞典』によれば、本社はこの芝原入道性虎が熊野から勧請したと記している。

    電話番号
    (0982)73-1009
    郵便番号
    882-1102
    住所
    西臼杵郡高千穂町大字押方3371番地ノ3
  • 菊宮神社(きくのみやじんじゃ)

    菊宮神社(きくのみやじんじゃ)

    三田井後河内に鎮座し、永正元年(1504)の創建と伝える(『宮崎県地名大辞典』)が定かではない。
     古老の伝説によれば、鎌足公の末孫で肥後菊池氏の祖が、戦乱に逃れ高千穂町三田井馬原栄宅に辿り着き、後宮を建て天児屋根命、大職冠鎌足公を祭神として奉祀したと伝える。後天正十九年(1591)三田井兵部大夫右武公が再興したと伝える。祈願成就の神として高千穂神社・槵觸神社とともに、今なお天孫降臨聖地三田井三社の一社として尊崇されている。
    『日向地誌』によると、旧称菊大明神といい、明治四年後河内神社と改称し、村社となり、後、菊宮神社とさらに改められた。

    電話番号
    (0982)73-1009
    郵便番号
    882-1101
    住所
    宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井1688-1
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