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宮崎県の神社

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  • 八手神社(やつでじんじゃ)

    八手神社(やつでじんじゃ)

    貞亭二乙丑年三月の創建とされ、八手大明神と称し、漁猟の神として里人の崇敬が篤い。元日日向国赤江河港(字津屋原)に鎮座。その社地は老樹繁茂した林巌の境内であったが、昭和十八年四月この近辺が赤江軍用飛行場として使用されるに際して、移転のやむなきに至り、現在に移転した。
    高千穂峰に降臨したニニギノ命は、コノハナサクヤ姫を妃とされ、ホデリノ命(海幸彦)とホオリノ命(山幸彦)が誕生する。ホオリノ命が兄ホデリノ命が兄ホデリノ命の釣針を無くして困っている時、海神国に行くことを教え導くのが当社の御祭神である。
    後に神武天皇に「東方に美地あり」と教え東方に向かうことを導くのも同祭神である。
    昭和六十二年都市計画による区画整備事業により社殿を改修して神域を現在地に遷座した。
    石造の二ノ鳥居は、元文二年(1737)船持・日高仁兵衛の銘があり、県内最古級である。赤江港を利用する船持衆の信仰が篤かったと考えられる。
    正徳五年(1715)の棟札に「御本地十一面観世音守護所」とあり、神仏習合の歴史を今に伝えている。
    現在も境内に観音堂が祀られている。

    電話番号
    (0985)51-5646
    郵便番号
    880-0913
    住所
    宮崎市大字田吉4丁目14-5
  • 古城神社(ふるじょうじんじゃ)

    古城神社(ふるじょうじんじゃ)

    明治2年の延岡藩調書によれば、当社について、「古城村丸尾山神社祭神大山祇命 勧請享保四年六月 本社竪六尺横九尺 拝殿竪三間横二間 境内東西六間南北四間 除地無御座候 祭礼九月初申神楽」とあり、享保四年(1719)の勧請で九月の祭礼には神楽が奉納されていたことが見える。
    当地は、鳥羽天皇の皇女、八条女院障子の所領で、世にいう八条女院御荘二十一カ郷の一つであろう。古城村の鎮守として勧請されたものと思われる。
    現在の社殿は昭和57年12月新築。
    末社 川上神社(持田)
       八坂神社(山之城)
       霧島神社(山内)
       大将軍神社(古城)

    電話番号
    (0985)51-1784
    郵便番号
    880-0931
    住所
    宮崎市古城町時雨3861番地
  • 小戸神社(おどじんじゃ)

    小戸神社(おどじんじゃ)

    第12代景行天皇の勅により創建と伝わり、太古伊弉諾大神が禊祓をされた〝祓いの神事〟由縁の神社である。。
    創建当初は大淀川河口付近に祀られていたが、寛文2年(1662年)の西海大地震により海没し、上野町(現在の橘通西2丁目付近)に遷座する。
    その後昭和9年に橘通拡張工事により、現社地に遷座する。

     当社は景行天皇の勅によって創建したものという。紀元七百四十年代であろう。古来より、今の大塚地区と下北方地区より下流域、すなわち旧市街地全域を小戸と称し、大淀川河口小戸町小戸の瀬は小戸神社鎮座の清浄の地として祀られ、今も夏祭の名越歌に
     港口には黄金の真砂  沖の小戸の瀬、宝浮く
    と歌いつがれ、三千年来、尊び敬われて来た。いわゆる、祓詞の筑紫の日向の橘の小戸という地目をそのままに、太古伊弉諾尊が禊祓をされたゆかりの地であり、皇祖天照大神をはじめ諸神ご誕生の聖地の神社であると伝える。
     此後、文明五年(1471)癸己三月一八日社殿造営、延徳二年(1490)庚戌八月社殿修復、天文一五年(1546)丙午四月一四日ついで永禄九年(1566)丙寅十二月二十六日社殿の改築がなされたが、永禄、天正の乱により、ご神領の三十町も断絶多くの神宝及び旧記等も滅亡した。
     その後寬文二年(1662)九月十九日西海大地震の際高潮の災厄により下別府より大渡の上に奉還し(元、元宮町)、同年上野町に社地を築いて遷し奉った。その後正徳五年(1715)と享保二年(1717)に修理ご造営される。この年神祇管領卜部朝臣兼敬卿の筆になる「正一位小戸大明神」の八字を彫書した神額が奉納され今に現存する。
     延宝三年(1675)橘三喜は『一ノ宮巡詣記』に
     日向なる小戸の渡の浦こそは 青人草の初めなりけれ
     とうたっている。
     さらに昭和七年一月橘通りの拡張に伴い、橘通り二丁目四四番地より、元鎮座地に移転を決し、昭和九年五月二十七日竣工、正遷座祭を執行し現在に至る。

    電話番号
    (0985)23-6684
    郵便番号
    880-0014
    住所
    宮崎市鶴島三丁目93番地
  • 八幡神社(はちまんじんじゃ)(吉村)

    八幡神社(はちまんじんじゃ)(吉村)

    文明八年(1476)旧六月十三日に宇佐神宮より御分霊をお迎えし、清水長門守が此の地に八幡神社を建立した。
    明治、大正の頃、十五夜祭には流鏑馬(やぶさめ)が奉納され、のちに変じて「やくさみ」(現代の競馬)になった。神社から旭道線へ通じる八幡通りをやくさん馬場と言い、境内からやくさん馬場に向かって四頭ずつの若駒が競争した。騎手は七~八歳の子供で鉢巻に黒しゅすの陣羽織を着せ、子供騎手の足を馬の腹帯にしばり、村の若者や見物衆が長い鞭で馬の尻をたたいて応援したもので、騎手は馬の走るにまかせ、田の中に飛び込む者あり、決勝点をはるかに越して今の薬師様まで行く馬ありて終日賑わった。
    慶応三年(1867)大政奉還され、明治四年廃藩置県と共に天領地に置かれていた当地域の区有地は大字吉村有地となり、十五夜、例祭および夏祭にはご神幸祭が盛大に行われている。昭和四十三年(明治百年)拝殿および北山神社本殿を改築した。

    電話番号
    (0985)24-5561
    郵便番号
    880-0841
    住所
    宮崎市吉村町宮脇甲2133番地
  • 瀬頭神社(せがしらじんじゃ)

    瀬頭神社(せがしらじんじゃ)

    平安時代、鳥羽天皇の御代、永久年間の創建で、皇女八幡院璋子殿下の領地であった頃である。瀬頭村はもと北那珂郡で、のち宮崎町の一部となったが藩政の飫肥藩に属した。明治元年の石高は一二〇石六五七であった。
    さらに以前は元恒久村の一字地であり明治九年丙子、別に分れて一村となったと「日向地誌」は記録している。このようなゆかりの地にその鎮守として祀られ、七屋神社と称し別名七屋さんの愛称で親しまれ、古くからこの地一帯の人々に篤く崇敬された。例祭、春祭、夏祭には神楽舞、相撲、力石だめし等、奉納され賑わいたる由なり。
    元恒久村から一村に別れた年の明治九年十月十八日付で村社となり、戦後の神社制度改革により現在に至る。

    電話番号
    (0985)23-6684
    郵便番号
    880-0872
    住所
    宮崎市永楽町85番地
  • 松熊神社(まつくまじんじゃ)

    松熊神社(まつくまじんじゃ)

    第十二代景行天皇の御宇、小戸神社と同じく松熊山にご鎮座されたが、寛文二年(1662年)九月十九日の西海大地震による洪水のため、社殿流失の災厄に遭い、のち下別府字下北山に再祀した。その後船持の人たち相談して赤江川(大淀川)の港脇へ祠を建て、水門の神として遷座申し上げ、ご社名は往古の鎮座地であった松熊山の松熊を付した。水門の神は禊祓い給いし、伊邪那岐命を主神に(ご鎮座地も今に小戸町)以下、この禊祓によって生れ出で給いし神々である。明治百年の昭和四十三年五月一日その記念事業としてご本殿の改築を行った。

    電話番号
    (0985)24-5561
    郵便番号
    880-0857
    住所
    宮崎県宮崎市小戸町36番地
  • 熊野神社(くまのじんじゃ)宮崎市江平

    熊野神社(くまのじんじゃ)宮崎市江平

    当社の由緒は不詳であるが、棟札に元禄第八乙亥歳(1698)に新建立、江平権現とあり、ほか棟札には
    奉 鎮祭熊野権現社 安永申午七月二十八日
    奉 造営神楽殿一宇 天明五歳乙巳十一月十七日
    奉 再興日州江平下権現 寛政八歳丙辰十一月二十七日
    奉 再建熊野大権現 弘化三庚午歳正月一晦日
    奉 造営熊野拝殿一宇 嘉永三庚戌歳霜月二十七日
    奉 勧請祇園三所別宮 万延元年庚申八月三日
    等があり、その由緒を物語っている。
    なお岩永姫命、火香具槌命は境内社として奉祀されていたが、明治五年二月五日合祀した。戦災は免れた神社であったが終戦直後の台風により社殿全壊の災厄にあった。
    現社殿は昭和三十一年三月三十一日竣工。

    電話番号
    (0985)28-3332
    郵便番号
    880-0816
    住所
    宮崎市江平東一丁目1番16号
  • 宮崎天満宮(みやざきてんまんぐう)

    宮崎天満宮(みやざきてんまんぐう)

    市内を一望出来る天神山の高台に鎮座し受験生を中心に学問・技芸等の守護神として人気がある。又、桜や梅が沢山あって、春頃には大勢の花見客でも賑わう。

    当社は、北野聖廟より村内字宮園というところに勧請したもので、建久年間、伊東大房丸が日向一国を領地のとき、神領五町歩を寄付し、殊に崇敬した神社である。
    その後、元和年間に同村田中に移転、明治十一年谷川町二丁目一二六番地に移転し現在に至る。その間、社殿ならびに境内の汚損、狭隘を来し、祭事等に不便を感じるようになったので、昭和八年隣接の天神山県有地二反歩を払い下げ、そこへ移転改築をして境内の整備拡充がなったものである。
    境内愛宕山は、宮崎市街に突出した高台で、四方の眺望極めて雄大であるが、京都の愛宕山に擬して、この高台が選ばれたものであろう。

    電話番号
    (0985)51-1784
    郵便番号
    880-0909
    住所
    宮崎市谷川町二丁目132番地
  • 宮崎八幡宮(みやざきはちまんぐう)

    宮崎八幡宮(みやざきはちまんぐう)

    宮崎八幡宮は平安時代に創建された古社であります。永承年間国司海為隆がこの地に来り、宮崎平野の開拓に当り上下の尊崇の篤かった宇佐八幡宮を勧請し、旧来この地に奉祀されていた橘の大神と共に合祀したのが当社の創建である。
    鎌倉時代に記された『建久図田帳』、『宇佐大鏡』などの古文書にも、その頃の地名として、渡別府と記され、その頃の様子がいくぶんわかる。
    当宮も、渡別府八幡、宇佐八幡、八幡宮等の名称で親しまれていたことは、当宮に残る社宝の棟札からも判明される。
    それより時代とともに、内藤の諸侯、領主をはじめ、宮崎郷の中心として信仰され、宮崎の氏神として「八幡さま」の愛称とともに、人々に崇敬されてきた。江戸末期から明治五年にかけては、この地に私塾(開設杉田千蔭)があり、宮崎小学校はそれを母体に開設された。
    領主武将の崇敬篤く、明治四年八幡神社としていち早く郷社に列せられた。その後の発展にともない、昭和四十三年十二月より宮崎八幡宮と改称し、つづいて境域の拡張、整備が行われ、昭和五十三年十月にはご社殿、神門、拝殿のご造営の竣工を見、つづいて昭和五十六年、参集殿の竣工をなし、武勇の神、安産の神、学問の神、商工の神として、多くの崇敬を受けている。
    なお特殊神事として、夏祭り(七月末日)、どんど焼(一月十四日)神事などがあり、多くの参拝者を集めている。

    電話番号
    (0985)20-7878
    郵便番号
    880-0804
    住所
    宮崎市宮田町3番27号
  • 宮崎神宮(みやざきじんぐう)

    宮崎神宮(みやざきじんぐう)

     社伝によれば、本宮は神武天皇の孫にあたる健磐龍命(たけいわたつのみこと)(熊本・阿蘇神社ご祭神)が九州の長官に就任した際、祖父のご遺徳たたえるために鎮祭したのが始まりと伝えられています。下って第十代崇神天皇、第十二代景行(けいこう)天皇の熊襲(くまそ)ご征討の際に社殿のご造営があり、ついで第十五代応神(おうじん)天皇の御代、日向の国造が修造鎮祭(しゅうぞうちんさい)せられた旨が旧記に伝えられています。現在の社殿は、明治四十年に建て替えられたもので日向の名材狭野杉を用い白木で銅板葺きの神明造りであります。

    電話番号
    0985-27-4004
    郵便番号
    880-0053
    住所
    宮崎市神宮二丁目4番1号
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