Loading...

宮崎県の神社

神社検索
神社データ(神社名、住所、由緒等)から全検索します。
地域
地域一覧
  • 八坂神社(やさかじんじゃ)(糸原)

    八坂神社(やさかじんじゃ)(糸原)

    創立由緒ははっきりしないが、天和三年熊野三所大鳥尾権現として再興の棟札があった。往古、伊藤氏の建立という(「三国名勝図絵」)。文政十二年(1829)十月十八日再興。元の社号を祇園神社と称していたが明治のはじめ八坂神社と改称した。
    「日向地誌」によると、熊野三所大鳥尾権現は、倉岡神社に合祀されたことになっているが、同時に「八坂神社村社なり」と記述されており、その間に復社されたものとみられる。
    社地は昭和九年四月、大淀川改修のため現位置に移転した。昭和二十年四月十二日柳瀬大火の際、類焼したが同年七月仮殿建立、昭和三十年九月に現社殿が新築された。

    電話番号
    (0985)41-0501
    郵便番号
    880-2231
    住所
    宮崎市大字糸原319ノ1番地
  • 白髭神社(しらひげじんじゃ)宮崎市

    白髭神社(しらひげじんじゃ)宮崎市

    当社は、日向の地頭職に伊東祐経が任ぜられた時、ここの鎮守として勧請したものと伝えられ、時の鎌倉幕府は武運長久祈願のために社領高五十石を奉納したが、五年後の正治二年惟宗忠久公(のちの島津と改姓)の領地となってからこの社領制は廃止された。忠久は島津荘の始祖であり、以来島津荘の中にあったが、天正十三年編成の『日向五郡分帳』には宮崎之郡有田五町とあるところをみると、一時このような状態の時があったものであろう。現在生目地区の中にあることを思えば数奇な歴史の歯車を感ずるものである。しかし、有田村は薩摩藩に属し石高五七四石をもってご一新となり、その四年三月鹿児島藩神社掛、文書奉行の橋口一郎と、同じく小森新蔵の両者が出張して新しい神社制度のもとに以前から祀られていた、大将軍神社、天満神社、森稲荷神社の三社を合祀して白髭神社と称した。

    電話番号
    (0985)47-1444
    郵便番号
    880-2102
    住所
    宮崎市大字有田2311・2312番地
  • 若宮神社(わかみやじんじゃ)宮崎市吉野

    若宮神社(わかみやじんじゃ)宮崎市吉野

    「日向地誌」によると、吉野村は嵐田村に同じとし、建久八年(1197)丁巳六月の「日向国図田帳」には諸県の荘四五〇町地頭故勲藤原左衛門尉とあり、これにより以前は藤原氏の管下にあったことがわかる。建久以後は伊東氏から島津氏へと変わり、のち秋月氏の管轄となったことは金崎村に同じである。
    その伊藤氏の頃、伊豆の国の浪人川越数馬重為という者、伊藤氏に旧縁あるを以て日州那珂郡に来て、のち吉野村の地頭となった。かくて以前に信仰した北山大明神のご分霊を伊豆の国より奉還し、若宮大明神として吉野村の鎮守としたのである。
    伊藤氏没落後は、川越主殿重郷及び川越太郎右衛門重潔が若宮大宮司となったが、その後宮永氏が代々奉仕していたようである。
    所蔵の棟札によれば、正保三年(1646)九月、元文四年(1739)四月、天明八年(1788)九月、享保元年(1716)十一月、慶応二年(1866)十一月に社殿の造営が行われている。

    電話番号
    (0985)41-0501
    郵便番号
    880-2233
    住所
    宮崎市大字吉野108番地
  • 天満神社(てんまんじんじゃ)(堤内)

    天満神社(てんまんじんじゃ)(堤内)

    将軍足利義晴、時は桃山時代だがその文化も終わりに近く、また各地の荘園も末期の頃、すなわち天文十一年(1542)十一月二十五日創立の棟札がある。
    ご鎮座の境内は、貞享三年(1686)丙寅四月秋月種封によって管轄されたことは、金崎村と同じである。元禄二年(1689)己巳三月に禄高の増があり、この村内からは百五十一石余の分賊をうけている。
    また日向五郡の古歌に「宮崎は曾井清武に田野浮田久津良高浜堤内まで」とあるところからして、古い時代から一村をなしていたことを思わせる。
    明治維新後に村社となりご祭神にあやかって境内一帯並木をはじめ梅の林をなしている。

    電話番号
    (0985)41-0501
    郵便番号
    880-2232
    住所
    宮崎市大字堤内235番地
  • 金﨑神社(かねさきじんじゃ)

    金﨑神社(かねさきじんじゃ)

    金崎は大淀川の支流綾川に臨み、金崎神社の背後の小丘陵である。
    神武天皇狭野より宮崎の宮に御遷御の時、この丘上にお休みになられ、橘の小戸の阿波岐原お望みになられた地として、紀元二千六百年記念祭時に顕彰されている。
    金﨑神社は桓武天皇の御代、金崎郷の総廟として鎮座されたものと伝える。昔時は金之御子、または金御児を冠して、六社大権現と称されていた。建久元年(1190)伊東祐経公日向の守護となり、社領高七石を奉納した。天正十五年(1587)秋月築前守の領地となっても、社領七石は旧に依って奉納され、更に元禄二年(1689)秋月式部種封公の領地になっても、社領は前例に依って奉納された。
    当社はもと社殿背後の霧島山の山頂に鎮座し、元禄年間山麓に遷座したが、度々不思議
    な事があって、宝永年間現在地に再遷したと伝える。

    電話番号
    (0985)41-0501
    郵便番号
    880-2234
    住所
    宮崎市大字金崎2995番地
  • 大塚神社(おおつかじんじゃ)

    大塚神社(おおつかじんじゃ)

    創建は社蔵の棟札によれば、五十五代文徳天皇の齋衡年間(854~856)土持冠者左衛門尉景綱が、当時宇佐宮領であった大墓別符(大塚)に宇佐八幡を勧請し産土神として祀った。
    文永元年(1264)飫肥藩祖藤原祐時により再興、その後文禄二年(1593)、慶安元年(1648)、寬文七年(1667)、宝暦二年(1752)、安永九年(1780)、文化十二年(1815)、嘉永四年(1851)に再興が繰り返されている。
    明治三年冠嶽大権現及び城ノ下天神を遷座合祀する。昭和五十九年には氏子崇敬者の協力により全面改築が行われた。

    電話番号
    (0985)54-3210
    郵便番号
    880-0951
    住所
    宮崎市大塚町原ノ前1598番地
  • 加江田神社(かえだじんじゃ)

    加江田神社(かえだじんじゃ)

    伊弉諾大神が檍原で禊された所として、元加江田村字中原という所に鎮座された。寛文二年(1662)の大地震の時、海辺の一村は沈み、田畑高八五〇〇石が損失し、その他末社斟八神社の社領も海に没した。その時河野某なる者、ご神体を泥海の中から辛うじて奉り、字仮神という所に小社を過構えた。寛文十二年(1672)九月十八日字丈之馬場へ遷し奉った。寛政十一年(1799)九月二十九日ご殿並びに舞殿等を再興する。
    此社は往古より加江田伊勢神明宮と称し、日向国旧社の一社である。ことに皇室の大祖たる天照大神ご出生の霊蹟と云い伝えられ維新の際加江田神社と改称、郷社に列せられる。
    維新以前は、飫肥藩崇敬社としてご神殿、祭具等伊東家のご紋を彫刻され、毎年二、六、九月の例祭には領主自ら参拝された。祭典時には神事料、玄米弐石弐斗八升を下賜されたと伝えられている。天照大神が上古天の長田狭田に御田作られし古事に準じ、毎年三月の例祭には社人牛を用いて田作りをする。その時松葉を苗として植える。里人は祭典修めを待ち其の苗を申し受け、我が家の守り神として謹んで拝するのである。

    電話番号
    郵便番号
    889-2154
    住所
    宮崎市学園木花台桜一丁目29番地4
  • 河上神社(かわかみじんじゃ)

    河上神社(かわかみじんじゃ)

    旧瓜生野村と旧那珂村の境界線となっている石崎川の、右岸に鎮座する神社で昔は大瀬町の村社であった。創立は不詳であるが、慶長元年(一五九六)丙申県(延岡)城主高橋右近将監種統(元種が本名)時代の勧請と伝えられる。『日向地誌』によると、村社前田にあり、磐長姫を祀るとある。

    電話番号
    (0985)41-2641
    郵便番号
    880-0045
    住所
    宮崎市大瀬町4422番地
  • 八幡神社(はちまんじんじゃ)(瓜生野)

    八幡神社(はちまんじんじゃ)(瓜生野)

    聖武天皇の御宇天平九年(737)この地に勧請されたと、当社棟札に明記されている。古くは瓜生野八幡宮と呼ばれ、現在でも地元ではそう呼ばれ崇敬されている。付近に宇佐八幡宮領瓜生野別府があったところから、その鎮守として勧請されたものであろう。所蔵の棟札によれば、延長二年(924)、元久元年(1204)、慶長十六年(1611)、寛文八年(1668)、寛延三年(1750)と、たびたび造営再興が繰り返されている。
    明治四年八幡神社と改称し、郷社に列せられた。
    当社殿後方には、半壊の古墳封土があり、また境内にはうっそうと茂るクスノキの群落は、瓜生野八幡クスノキ群として、昭和二十六年六月国の天然記念物に指定された。その最大のものは目通り幹回り約8.9mで樹齢八百年と推定されている。また宝物として仏光背一面を所蔵している。

    電話番号
    (0985)41-2641
    郵便番号
    880-0045
    住所
    宮崎市大瀬町5714番地
  • 熊野神社(くまのじんじゃ)宮崎市熊野

    熊野神社(くまのじんじゃ)宮崎市熊野

    大字熊野区の総氏神様。
    弘文天皇の白鳳2年(672年、大和朝廷の時代)、紀伊の国熊野本宮大社のご神霊を勧請して、当地、御盥迫(みたらいざこ)で禊祓いをして奉祀し、山王大権現と称し、特に地元では「お山王様」とよんで崇敬した。これより「熊野」の地名が起こったという。
    藩政時代には、清武郷五社宮(他に、加江田神社、中野神社[清武]、恒久神社[赤江]、加護神社[国富])の1つとして、藩主伊東氏は代々社録を献じて崇敬すること厚く、大祭日には必ず参拝したという。
    明治時代になり熊野神社と改称し、明治25年6月現在地に移転ご遷座、同39年神饌幣帛供進神社に指定された。
    昭和24年台風の被害著しく、拝殿の大改修を行い、又、同26年宗教法人神社となった。同56年、老朽化に伴い管内有志の浄財により、本殿、拝殿、社務所の全面ご造営、境内の整備を行った。

    ※境内外末社
    神社名 木花神社(きばなじんじゃ)
    御祭神 邇邇芸命(ににぎのみこと)
    木花佐久夜毘売(このはなさくやびめ)
    鎮座地 宮崎市大字熊野9507
    ご由緒 「古事記・日向三代」に登場する邇邇芸命の行宮の跡と伝えられ、佐久夜毘売が火を放って無事出産した3皇子誕生の産屋「無戸室(うつむろ)」の跡、産湯に汲んだ泉と伝えられる「桜川」がある。木花佐久夜毘売への厚い崇敬の念が、木花神社の社名を産んだ。現在、「日向神話街道」に位置づけられ、県内外からの参拝者が多い。

    ※夫婦杉
    夫婦円満の御神木であり、恋人達は手をつないで三回右回りすると恋が実るという。
    一回目は、男性が外側
    二回目は、女性が外側
    三回目は、また男性が外側をまわるとよい。

    電話番号
    (0985)58-0229
    郵便番号
    889-2151
    住所
    宮崎市大字熊野6976番地~6981番地
  • 野島神社(のしまじんじゃ)

    野島神社(のしまじんじゃ)

    文安三年(一四四六)十二月三日、田口久次が創立したその棟札に『白髭大明神の御堂を造り奉る趣旨は、金輪聖皇・天長地久国土泰平、殊には信心願主田口久次のため、武運長久子孫繁昌・領内安全・五穀豊穣・並びに氏子等の無病自在・寿命長遠・家内安穏・福責増長・諸人授楽・よろず心中の祈願悉く皆満足せしむるのみ、よって精誠を致し造立奉る』とある。
     また、旧飫肥藩制中は社領三石一斗が寄進されている。明治五年野島神社と改称、天神山にあった大将軍社、竹下にあった年ノ神社、堀切峠にあった三池神社を合祀し、村社に列せられた。

    伝説(縁起)
    野島神社には童話に出てくる浦島太郎のそっくりの伝承民話がある。
     それは、天歴三年(九四九)八月に遡のぼる。野島の浦人橘尊俊という者、この浦辺で長い白髪の老人に出会った。その老人が『私は、丹州の者であるが、久しく蓬莢山に住み、たまたまこの浦に来、この絶景を眺め去るに忍びなくなった。ここに私を祀っていただきたくなら幸いである。』と言って消え去った。尊俊は村人と相談の上、社を建てて祀ったのがこの社であると言われている。
     また、浦島子伝及び扶桑略記載には、『浦島翁が古里の丹州与謝郡に祀ってあるのを見聞したことはない』とあり、物語の最後が前記伝説と結びつくのである。

    電話番号
    (0985)67-1234
    郵便番号
    839-2301
    住所
    宮崎市大字内海6227番地
  • 青島神社(あおしまじんじゃ)

    青島神社(あおしまじんじゃ)

    島の周辺は天然記念物である青島の隆起海床と奇形波蝕痕(通称鬼の洗濯板)で囲まれており、中心部は特別天然記念物である亜熱帯性植物群落がある。

    電話番号
    (0985)65-1262
    郵便番号
    889-2162
    住所
    宮崎市青島二丁目13番1号
神社検索
神社データ(神社名、住所、由緒等)から全検索します。
地域
地域一覧