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宮崎県の神社

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  • 中野神社(なかのじんじゃ)

    中野神社(なかのじんじゃ)

    当社は53代淳和天皇の御世天長元年甲辰(西暦824年)勅宣により新羅降伏のため一國一社八幡宮を勧請すべきとの詔により、日向國一國一社八幡宮の最初也として創建された。

    電話番号
    (0985)85-1983
    郵便番号
    889-1601
    住所
    宮崎市清武町木原525番地
  • 姥ヶ嶽神社(うばがだけじんじゃ)

    姥ヶ嶽神社(うばがだけじんじゃ)

    当社は創立年月日不明であるが、棟札等は、安永五壬申年(1776)七月五日社殿再興とあるのが最も古い。寛政十三年(1801)酉年二月吉日社殿再興、天保十一年庚子年(1840)十月吉日社殿再興、安政六己未年(1859)正月吉日社殿再興とある。一説には鎌倉時代伊豆の伊東氏が当飫肥に転封され清武城を築城してより、この地に住民を定住させる事となりこの宮を建立されたともいう。
    安井息軒(宮崎郡清武町出身、寛政十年正月六日生、明治九年九月没、伊東藩の儒者昌平黌教授)に「姥神洞記」がある。神社所在地の九平の地名は、高平上高平柳平小平内平櫛平収平山之神平児屋之平の九つの平を総括して九平と藩主が命名させたと伝えられている。此の地は「南方より来る者此に至りて始めて宮崎児湯郡の地を望む」峠でもあった。安井の文にも「我聞姥ヶ嶽神者天狗也」とあるので道案内としての猿田彦命を祀ったと考えられる。戦前はご祭神「武甕槌神」を戦捷の神として、また、「彦五瀬神」は、弾避の神として信仰され出兵兵士の武運長久の祈願が盛んであった。「軻遇突智命」はこの神社を愛宕さまともいった由で火の神としての信仰もあったようである。
    昭和三十年一月火災のため本殿、拝殿炎上、翌年六月本殿再興、また昭和五十一年一月拝殿再興する。昭和五十八年四月二十二日神社本庁より姥ヶ嶽神社と承認を受ける。

    電話番号
    (0985)85-0168
    郵便番号
    889-2156
    住所
    宮崎市大字鏡洲字九平3976番地1先
  • 淀川橘稲荷神社(よどがわたちばないなりじんじゃ)

    淀川橘稲荷神社(よどがわたちばないなりじんじゃ)

    本来は宮崎天満宮の末社であり、淀川公民館内に神社がある。

    電話番号
    (0985)51-1784
    郵便番号
    880-0907
    住所
    宮崎市淀川町2丁目22番地
  • 八坂神社(やさかじんじゃ)(宮崎市城ヶ崎)

    八坂神社(やさかじんじゃ)(宮崎市城ヶ崎)

    当社の由緒は詳らかではないが、現存する最も古いものとして寶暦十一年(1761)一月二十四日の棟木がある。棟札には、請願 村社勘左衛門、井ノ元起右衛門他多数の祈願によるところが記されている。その後天保十二年(1841)六月五日に修築されている。往時、城ヶ崎町隆盛の時代は祇園神社と称し、別名牛頭天王八坂神社とも称され崇敬されていた。明治三年六月朔日王政復古につき夜句茂神社と改称、社殿の改築を行なっている。当時官命により恒久神社に合祀となったが、祭祀は毎年続けられ、のち復社許可となり八坂神社と改称し現在に至っている。

    ○男梛(おとこなぎ)と女梛(めなぎ)ご神木
    境内にある梛の木は、平安朝の古きから霊験あらたかなご神木として篤く信仰されている。この葉を所持すれば願い事は必ず叶うと言われている。
    別名「ちからシバ」ともいい、宮崎では宮崎神宮、江田神社、恒久神社、高屋神社、八坂神社に植栽されている。
    男女の仲を結ぶほかに、大願成就、災難除、交通安全、進学入試合格、福運招来が必ず結願すると存じます。
    縁起によると源頼朝と北条政子がお互いにこの葉をお守りとし、契りを果たしたことが伝えられている。
    古来、母親が嫁ぐ娘に幸せを願い手鏡の中にそっと忍ばせて持たせたとも。
    梛の葉を財布に入れておくと金運に恵まれるとも伝えられている。

    電話番号
    (0985)51-5646
    郵便番号
    880-0917
    住所
    宮崎市城ヶ崎三丁目9番地4
  • 岩ヶ瀬水神神社

    岩ヶ瀬水神神社

    大淀川の下流左岸に鎮座。この地はいわゆる「橘の小戸の阿波岐原」の伝説地である。古くは大淀川の入江に近く、社殿の裏まで川が入り込み、この水を引いて一帯の水田に灌漑したと言い、その水口に祀られていた水神であるため岩ヶ瀬水神と称え、船主等の崇敬の神であった。

    電話番号
    (0985)20-7878
    郵便番号
    880-0864
    住所
    宮崎市吾妻町109番地
  • 宮崎県護國神社(みやざきけんごこくじんじゃ)

    宮崎県護國神社(みやざきけんごこくじんじゃ)

    当社の祭神は戊辰の役(慶応四年・明治元年に行われた官軍と旧幕府側との戦役)を始め、過去幾多の国難に殉ぜられ、そのご存命中宮崎県に密接なる関係を有せられた人で、すでに靖國神社に合祀された神霊である。
    宮崎県においては、従来国家の危急に殉ぜられた英霊を県民挙って祭祀する護国神社がなく遺憾とするところであったが、大東亜戦争勃発により戦没者の数は著しく増加し、これ等護国の英霊に対する県民の勧請と敬仰の念はいよいよ熾烈となり、ここに県民の要望に応えるため、当時の宮崎県知事の職にあった永船克己をはじめ58名が代表者として、昭和十八年四月二十三日内務大臣の許可を得て宮崎県護国神社創建に着手した。しかしながら建設途上において、昭和二十年八月十五日の終戦を迎え、日本が連合国軍の管理下に置かれると共に、当時の軍政部長官の言明により建設を放棄するの余儀なきに至った。その後独立国家として更正するに及び、再び護国神社建立の要望が澎湃として起こったので、昭和二十八年四月、田中長茂(当時の宮崎県知事)を総裁に、日高弥一(当時の県議会議長)を会長とする宮崎県護国神社再建奉賛会を組織して、県民の浄財を募り神社再建に着手した。昭和二十九年六月十三日、役員会で本神社運営上、一応宮崎神宮の境内神社として設立することに議決し、同年六月三十日付を以て神社本庁統理の承認を受け、宮崎神宮境内神社として創立した。翌昭和三十年(1955)三月十日竣工、同日鎮座祭を行いここに始めて国家公共に尽くした人の神霊を奉祀申し上げることができた。その後、本神社を宗教法人法による宗教法人として設立するのを適当と認める議が起こり、同年十一月二十六日神社本庁統理の承認を受け、同十二月二十一日宮崎県知事の認証を受け、昭和三十年十二月二十四日宗教法人設立の登記を完了した。爾来神社創立の日(3月10日)を例祭日と定め祭祀を行ってきたが、諸般の事情に依り昭和五十三年二月十八日神社本庁統理の承認を受けて例祭日を四月十日に改めた。

    電話番号
    (0985)25-2719
    郵便番号
    880-0053
    住所
    宮崎市神宮二丁目4番3号
  • 諏訪神社(すわじんじゃ)宮崎市

    諏訪神社(すわじんじゃ)宮崎市

    当神社は新名爪村から芳士分郷以前に合祀し、土持八幡宮とよばれ、明治初年に至り諏訪宮を産土神社として崇敬するに至った。
    この地は、小字永迫(蓮ヶ池横穴古墳のあるところ)の諏訪池の畔りに鎮座されていたが、参詣が不便なために、明治25年1月現在地に遷座奉祀した。主祭神は大国主之神の御子で、天照大神の命をうけてこの国に使した建御雷之神と出雲国之伊邪佐の小浜に降り至りて力競べをされた神とつたえられている。

    電話番号
    (0985)39-2417
    郵便番号
    880-0123
    住所
    宮崎県宮崎市大字芳士1159-2
  • 八幡神社(はちまんじんじゃ)(島之内)

    八幡神社(はちまんじんじゃ)(島之内)

    社蔵の由緒によれば、筑前筥崎八幡宮より勧請、解除崎八幡と称していたと伝える。往時は那珂郡広原一二〇町の大地主神として尊崇され、領主よりは十石の社領が寄進されていた。また、「宇佐大鏡」によれば、永保三年(1083)宇佐神宮領として広原荘が設置されたことから、宇佐八幡を勧請したのが起源ではないかとも思われる。当時広原八幡と称されたと伝えている。
    慶長五年(1600)伊藤、島津両氏の戦乱にかかり、社殿財宝ことごとく鳥有に帰し、子文書等も焼失した。江戸期西海大地震後、寛文四年(1664)十一月再興の記録がある。
    当社宮司家(児玉家)に伝わる紀元書によれば、応神天皇(誉田天皇)は仲哀天皇(足仲彦天皇)と神功皇后(息気長足姫命)の第四子に当たられ、御年四歳にして皇太子になられたが、父天皇早世の為母后摂政の間、老臣武内宿祢がこれを補佐して政務をとったと伝えている。この故事から、古来幼童の守神、特に痴痢止、七五三の守神として、ご神徳高く広く信仰を集めている。

    電話番号
    (0985)39-4634
    郵便番号
    880-0121
    住所
    宮崎市大字島之内7599番地
  • 広原神社(ひろはらじんじゃ)

    広原神社(ひろはらじんじゃ)

    創建年代は明らかでないが、別当寺である極楽寺の創建が鎌倉時代と考えられるので、その頃に極楽寺鎮護の社として建立されたものであろう。
    明治維新以前は山王社と呼ばれ、今も氏子等は山王様と称している。
    江戸時代以降、広原村の総鎮守の社となり、明治二十二年芳士、広原、島之内、新名爪、塩路の旧五ヵ村が合併して住吉村が成立してからは、大字広原の鎮守の社として地区民の尊崇をあつめてきた。明治二年に村社になる。
    もとの鎮座地は、今の極楽寺地区の西、およそ三百メートルの所にあったが、余りにも不便な為、明治四十五年現在地に遷座された。
    その為、境内にあった手力男神社も本社に合祀されて今日に至っている。末社に三野大明神(通称、寺大明神)がある。
    本殿は昭和四十九年十一月、拝殿は昭和三十一年十二月、参道の階段は昭和四十年十一月に新設されたものである。

    ※神楽
    約三百年位前から春秋の社日、祭典日に奉納され今日も続いており、春、秋の例大祭に奉納。以前の三十三番から現在は半分程度になった。奉納者は二十数名。

    電話番号
    (0985)41-0501
    郵便番号
    880-0125
    住所
    宮崎市大字広原5832番地
  •  住吉神社(すみよしじんじゃ)塩路

     住吉神社(すみよしじんじゃ)塩路

    神代の昔伊弉諾尊は、その妻伊弉冉尊のお亡くなりになったのを嘆かれ、その後を慕って塚穴に入られたので日向の橘の小戸の檍原に下られて御身の汚れを清められた。その禊祓の時現れた神々の中に表筒男・中筒男・底筒男の三神がある。
    塩路にあるこの三神を祀った住吉神社は全国にある社の根源である。大阪の住吉大社、福岡の志賀海神社とともに由緒ある住吉三神として名高い。寛政六年(1794)編「住吉大明神略御縁起」によれば、六代孝安天皇の命によって宮柱太しく建て申したのだという。
    都於郡城主伊東義祐の「飫肥紀行」の中に
     急ぎける程に檍原の波間よりあらわれ出でし住吉の里の近くに見え渡り、八重の潮路の松の秋風云々
    というのがあり、橘三喜の「一宮巡詣記」に
    江田の御社に参りそれより檍が原の住吉に詣でて、尋ね来て聞けば心も住吉の松は檍が原の松原。この海辺に伊弉諾命の身そぎ給う上・中・下の三つの瀬ありと伝えし云々とある。
    縁起の中に「御社より二十余町の沖に上つ瀬があるといっている。そしてそこには石の華表があるという。それより南方に中津瀬があり、ここに伊弉諾・伊弉冉の二柱を祀る社がある。それより南に下つ瀬があり小戸大明神の神社がある。」と書かれている。
    中つ瀬の社は江田神社であり、下つ瀬の神社は小戸神社で、もと当社は檍村大字吉村の下別府という所にあったが、寛文二年(1662)の地震で海中に没してしまった。縁起の下つ瀬というのは今の吉村の海である。浜山にあるのが住吉神社の大元であり、日向の小戸の檍原というのは当社から大淀河口までの地であるということになる。

    電話番号
    (0985)39-2835
    郵便番号
    880-0122
    住所
    宮崎市大字塩路3082番地
  • 新名爪八幡宮(にいなづめはちまんぐう)

    新名爪八幡宮(にいなづめはちまんぐう)

    第八十一代安徳天皇の養和年中(1181~82)この地に創建したもので、社伝によれば、豊前領主土持冠者左衛門景綱が日向の地頭の時、宇佐八幡宮の分霊を勧請したと伝える。土持八幡宮、または単に八幡宮と称していた。宇佐八幡宮新名爪別府については、『宇佐大鏡』によれば、治暦二年(1066)とあることから、当時新名爪の鎮守として勧請したと思われる。
    明治二年郷社となり、新名爪神社と改称したが、昭和四十八年旧称の新名爪八幡宮に戻し現在に至っている。
    また、室町時代の作といわれる舞楽面「陵王」(縦30㎝、横18cm、鼻の高さ13.5cm)が伝えられており、宮崎市指定の有形文化財に指定されている。
    舞楽面は全国に散在しているが、中でも陵王の面は九州地方では、福岡県観世音寺、大分県宇佐八幡宮と、新名爪八幡宮に限られており、本面は豊後宇佐八幡宮の関係において存在し、その南限と思われる。また、新名爪八幡宮の氏子にとっては、不老面(年をとらない面)と呼んで崇敬厚く、一方では恐怖感をいだきながら権威ある面として信じられ保存されてきたことは、文化的、民俗学的に意義あるものである。

    電話番号
    (0985)39-2720
    郵便番号
    880-0124
    住所
    宮崎市大字新名爪4449番地
  • 細江神社(ほそえじんじゃ)

    細江神社(ほそえじんじゃ)

    南北朝の乱れもようやく定まった応永八年辛巳(1401)当社創建という旧記がある。その直後文安三年(1446)丙寅六月二十九日伊東祐堯の軍によって細江神社が攻略される。
    永正十八年(1521)慶長三年(1598)寛文十年(1670)とご造営が行われ、また寛保二年(1742)には領主牧野越中守貞倶によってご神殿を再興している。
    ついで宝暦三年(1753)と文化十二年(1815)にご造営が行われ、明治後維新とともに八幡宮を八幡神社と改めた。
    摂社金宮神社は、本宮より二十三年後に創設され、細江神社の山深い鎮座と相対し、氏子住民の篤い信仰が捧げられてきた。
    旧お社は、山頂の山深いご鎮座である為、充分な祭祀ができず、長い歳月が経過し、度重なる風雨に耐えて来ましたが、老朽化が甚だしく改築の気運が高まる中、平成十七年四月氏子総会の議決を経て建設委員会を設立し改築の運びとなった。
    摂社である金宮神社の境内を新宮地と定め(細江神社と金宮神社を合祀)・(稲荷神社・若宮神社・八坂神社を合祀)・潮大山祇神社を改築ご造営するととなった。

    電話番号
    郵便番号
    880-2116
    住所
    宮崎市大字細江12番地3
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